【戦国こぼれ話】鬼滅の刃が大ヒット。剣豪・宮本武蔵の謎の生涯に迫る!

日本を代表する剣豪・宮本武蔵。無敵を誇ったことで知られている。(提供:アフロ)

■鬼滅の刃で剣豪にもスポット

 映画「鬼滅の刃」では、剣を使った戦いが繰り広げられる。剣といえば、日本にはかつて剣の達人たる剣豪が数多く存在した。その一人が宮本武蔵である。

 しかし、宮本武蔵の前半生は神秘のベールに包まれており、謎が多い人物である。武蔵のたしかな史料は、ほんのわずかしか残っていない。はたして、いかなる人物なのだろうか。

■宮本武蔵と関ヶ原合戦

 宮本武蔵が誕生したのは、天正12年(1584)。生まれた場所は、播磨と美作の両説があるが、未だ確定していない。青年期から武勇譚に事欠かないが、裏付ける史料はほとんどない。また、武蔵は二天一流の祖として知られているが、ついに仕官しなかった。しかし、多くの合戦に出陣したことで知られている。

 武蔵は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に出陣した。従来、武蔵は西軍に属したと考えられてきた。ところが、近年では武蔵が東軍に属して戦ったのが正しいとされている(『丹治峰均筆記』)。

 関ヶ原合戦の開戦と同時に、九州でも東軍と西軍は戦った。九州北部では、黒田如水が西軍に属した諸勢力を一掃すべく、石垣原合戦で大友吉統の軍勢と戦って勝利を得ている。実は、武蔵は如水のもとで、父である無二と西軍の一員として、石垣原合戦に参陣していたのだ。

■大坂の陣に出陣した武蔵

 武蔵には、大坂の陣に出陣したという記録が残っている。従来説によると、武蔵は豊臣方に属して敗北を喫したといわれているが、いったい徳川・豊臣いずれの陣営に属したのだろうか。

 『大坂御陣之御供』によると、武蔵は水野勝成の配下にあって、徳川方の陣営に属し、大坂夏の陣に参陣していたことが判明する。武蔵は「作州様附」とあるので、勝成の長男・勝重に属して戦ったことがわかる。つまり、武蔵は水野家の客将として、軍勢に加わったことが明らかである。

 従来説によると、武蔵は関ヶ原合戦も大坂の陣でも「負け組」に属し、辛酸を嘗めたとされていたが、それは誤りのようだ。その後、武蔵は島原の乱にも出陣した。

■武蔵と細川藩

 武蔵が細川藩と強いつながりを持っていたことは有名である。『細川家奉書』によると、武蔵は寛永17年(1640)8月に、七人扶持、合力米18石を藩主の忠利から支給されている。むろん、正式な仕官ではなく、客分としてである。寛永18年(1641)に忠利が没した後も、武蔵はその子・光尚から厚遇されていた。

 武蔵の書状により、光尚との関係が判明する。武蔵は光尚による厚遇に感謝の意を示す一方、人前に出ることもできず、老体のため兵法を指南することもままならないと述べている。

 ただ、武蔵が義子とする竹村与右衛門玄利が、相当の腕前になったので、よろしくお願いしたいと結んでいる。晩年の武蔵は、いささか体力的に不安があったようだ。

 晩年の武蔵が『五輪書』を執筆したのは、細川氏の客分時代だった。武蔵は細川藩で自らの剣を藩士に教授し、静かに晩年を過ごした。武蔵が亡くなったのは、正保2年(1645)である。

 鬼滅の刃の登場人物は、武蔵に勝てるのだろうか?