【戦国こぼれ話】戦国時代の人々はグルメだった!?意外な食文化と食生活!

桶狭間の戦いで今川義元が本陣を置いた場所。兵粮はどうやって調達していたのか?(写真:KEI108/イメージマート)

■今も昔も重要だった食事

 コロナ禍で厳しくなった外食産業。とはいえ、決して負けることなく、テイクアウトを充実させることはもとより、コロナ対策を施して頑張っている。

 戦国~織豊時代にかけては、今のように外食産業が花盛りだったわけではない。また、台風などの自然の脅威があれば、飢えに苦しむことになった。人々はどのような食事をしていたのだろうか。

■戦国~織豊時代の食事

 戦国時代から織豊時代にかけては、朝昼夕の三食になった時期でもある。それまでは、朝夕の二食だけであった。その代わり、武士、農民、商工業者は硯水(けんすい)という間食を摂っていた。うどん、そば、餅類などが間食として好まれ、野菜を2・3種類添えたり、ときに果物や菓子類も食べた。

 彼らは汁物、香の物、野菜、鳥や魚をおかずとし、味付けを濃いものにして、米を大量に摂取した。1日に約5合も食していたという説もあるので、相当な量の糖質を摂取していた。当時は農業などの肉体労働に従事していた人が多く、大量のエネルギー源を必要としていた。糖質オフの現代では、考えられない食生活だった。

 とはいえ、米は純粋な白米ではなかったようだ。米には粟(あわ)やひえなどの雑穀を混ぜて食し、米も半白米か黒米だった。米は、高価で貴重だったのである。湯漬、粥、汁掛け飯もよく食されていた。

 一方、戦国武将の食事のなかでも、饗応の際は豪華な食事が用意された。各地から食の名産品が寄せられ、食卓に並んだ。食事の際には酒も提供され、話が弾んだ。饗応は当主と家臣が結束を強める効果もあり、席次によって家臣の序列が明確になったのである。

■戦場での食事

 戦場での食事は、どうだったのだろうか。兵卒は、腰兵粮を自弁で用意した。2・3日の短期決戦では、腰兵粮と呼ばれる携行食の持参を求められたのだ。腰兵粮を準備できない場合は、借用も可能であったが、腰兵粮は当座の食糧を補うにすぎない。

 長期戦になると自弁では足りないので、大名が商人から食糧を調達し準備をした。ただし、商人との価格交渉が難航することもあったという。調達した食糧は、小荷駄隊が運搬に当たった。配給した米で酒を造る不心得者もいたと伝わる。

■なければ現地で調達

 それでも食糧が不足した際は、現地で調達するしかなかった。近世初期に成立した『雑兵物語』には、「食べられるものがあったら拾っておけ」という一文があり、食糧事情の厳しさが理解できる。

 そのような事情から、山芋を掘ったり、野草を採集したり、鳥獣類や魚などを捕まえたりして食べることもあった。むろん、戦場で庶民から食糧を略奪することもあった。戦場には、商人が米や雑炊を売りに来たという記録もある。

 当時は冷蔵庫がなかったので、保存の効く食事が主流であった。魚などは塩をして干したり、野菜も乾燥して湯で戻すなどした。米を干して湯で戻す「干し飯」は主食として必須であり、味噌などの調味料や乾燥させた食品が重宝された。

■工夫により補った食事

 一般的に、戦国時代は食糧が十分ではなかったといわれている。そうした事情から人々はさまざまな工夫をし、決して食べ物を粗末にしていなかったのである。

 現代に至っては食糧事情もよく、ライスの「大盛無料」「お代わり無料」なども珍しくないが、健康のためにほどほどにしておくべきだろう。