【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は連歌の達人だった!?その連歌歴に迫る!
■武将が好んだ連歌
大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀は、連歌を嗜んでいた。教養人と称される所以である。本能寺の変の直前の『愛宕百韻』は、その代表でもある。
武将が好んだ文芸として、和歌・連歌がある。武将は武芸の修練だけに限らず、和歌や連歌に熱心だった。とりわけ連歌は一体感が必要な文芸だったので、家臣団統制の一環として活用されたといわれている。戦国時代は京都が戦火に晒され、多くの公家が地方に下向し、武将らに和歌・連歌の指導を行った。
以下、光秀の連歌歴を確認することにしよう。
■光秀の連歌デビュー
光秀が連歌会に初めて参加したのは、永禄11年(1568)11月15日に催された百韻(五・七・五の長句と七・七の短句を交互に連ねて百句に至る形式)興行である。連歌師の里村紹巴(じょうは)の一門である昌叱(しょうしつ)、心前(しんぜん)のほか、細川藤孝(幽斎)ら12名が参加して催された。
紹巴が12句、藤孝が10句を詠むなかで、光秀はわずか6句しか詠んでいない。それは、光秀が信長の配下として日が浅く、また連歌の熟練度が相当レベルまで達していなかったからだといわれている。
では、光秀はどこで連歌を学んだのだろうか。光秀は藤孝に仕えていた可能性が高いので、明確に史料は残っていないものの、藤孝から連歌の手ほどきを受けたものと推測される。もちろん、百韻興行に出席した連歌師の指導もあったかもしれない。この連歌会に藤孝と光秀が同席していたのは、決して偶然のことではないだろう。
■連歌熱が高まる光秀
光秀と連歌にまつわる史料は乏しいが、元亀元年(1571)の比叡山焼き討ち後の逸話がおもしろい。光秀は近江坂本(滋賀県大津市)を信長から与えられ、築城工事を行っていた。そのとき三甫(さんぽ)なる人物が「浪間より かさねおける 雲のみね」と発句を詠むと、光秀は続けて「いそ山つたへ しげる杉村」と脇句を付けたという。
光秀の連歌熱が高まるのは、もう少しのちのことになる。光秀は判明するだけで、生涯で50数回の連歌会を主宰あるいは参加したといわれている。記録に残らない身内だけ連歌会もあったと推測されるので、実際はもっと催されたのかもしれない。天正5年(1577)以降になると、光秀の連歌熱はいっそう高まることになる。
■ハードな千句の賦何連歌
同年4月5日から7日の3日間にわたり、光秀は愛宕山(京都市右京区)で千句の賦何連歌を興行した。参加したのは、紹巴やその一門に加え、藤孝も参加していた。千句の興行の場合は、百韻を10回繰り返すハードなものだった。ゆえに3日も日数が掛かるのである。
おまけに連歌は出席者の息が合うかが問題で、句と句の付け方や場面の展開によって、良くもなるし悪くもなる。相当な修練が必要だったに違いない。
以降、光秀はハードな千句の興行に力を入れていく。天正7年7月18日、光秀は居城の丹波亀山城(京都府亀岡市)で千句の賦何連歌を興行した。やはり、紹巴やその一門が参加している。天正9年1月6日にも、光秀は居城の近江坂本城(滋賀県大津市)で連歌会を催しており、執心だった様子がうかがえる。
■丹後宮津でも連歌会
光秀は天正9年4月9日に紹巴を伴って、同月12日に丹後宮津(京都府宮津市)の忠興を訪ね饗応を受けた。同日には船で九世戸(くせのと)を見学し、天橋立の文殊堂で振る舞いを受けた。
その際、光秀は紹巴、藤孝らと連歌の会を催し、藤孝、紹巴のいずれかにより『源氏物語』の講読が行われ、光秀も側で聞いていた。戦国武将が『源氏物語』『伊勢物語』の講義を聞くことは珍しくなかったので、光秀も以前から関心をもって勉強していたのかもしれない。
このように、光秀は自ら進んで連歌を学び、会を主宰することで腕を磨いたようだ。『愛宕百韻』の謎については、ドラマの終盤に改めて取り上げることにしよう。