【戦国こぼれ話】浜松城で新たに堀と石垣が見つかる!「出世城」と称された浜松城の由来とは?

天下人になった徳川家康。家康以後、浜松城を居城とした大名は次々と出世した。(提供:アフロ)

■浜松城の調査が進む

 報道によると、昨年からの浜松市の調査によって、浜松城(浜松市中区)の本丸を囲む石垣や堀が新たに発見された。堀は幅が約10メートルで、深さが約4メートル。その角度は60度と急な作りになっており、固い地層を生かしているという。それらは、当時の城主・堀尾吉晴によって整備された。

 浜松城の築城年は、室町時代といわれている。その後、浜松城の城主などは、どのように変遷したのだろうか。

■徳川家康が築いた城

 永禄11年(1568)、徳川家康は本拠の三河国から東進し、今川領の駿河国に侵攻した。その翌年、掛川城(静岡県掛川市)に籠城していた今川氏真は家康に降参。事実上、駿河の名門だった今川氏は滅亡する。

 元亀元年(1570)、家康は戦国期に今川氏の支城があった曳馬(引馬)城に入った。家康は岡崎城(愛知県岡崎市)を長男・信康に譲り、曳馬(引馬)城を三方ヶ原台地の東南端に拡張すると、駿河・遠江経営の拠点としたのである。

 天正7年(1577)、家康は城の名を浜松城と改めた。曳馬(引馬)という名称は「馬を引く」という意味であり、敗北につながり縁起が悪いと考えたのだ。そこで、かつてこの地にあった浜松荘という荘園名にちなんで、城名・地名のいずれとも「浜松」と改称したのである。

■浜松城の築城形式

 浜松城は南北約500メートル、東西450メートルで、三方ヶ原台地の斜面に沿って築城された。西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ「梯郭式」を採用している。「梯郭式」とは、隣接した各曲輪が階段状になっており、本丸の背後が自然の防衛線になる城郭が主に採用した様式でもある。

 浜松城の石垣は野面(のづら)石を用い、野面積みで積み上げられていた。野面とは、山から切り出したままで、加工してない石の表面のことを意味する。石材があまりに不揃いで荒々しいため、横の通りが乱れた部分がある。

 現在、天守は鉄筋コンクリート製で復元され、内部は資料館になっている。また、浜松城公園は、桜の名所として知られている。

■浜松城における家康

 家康がこの地に拠点を定めたのには、大きな理由がある。甲斐の武田信玄が駿府(静岡市駿河区)に攻め込んで来ることに備え、遠江一帯を見渡すことができる三方ヶ原の丘に注目した。家康は勢力基盤を確固たるものにするために、まず信玄を倒さなければならないと判断し、この地を拠点として選択したのである。

 元亀3年(1572)12月、家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄と交戦した。この戦いは慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いとならぶ激闘で、敗北した家康は辛くも命だけは助かった。結局、徳川家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしたのである。

 その間の姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いも、家康が浜松城に拠点を定めていた期間の合戦であった。浜松城に在城した17年間は、家康にとって徳川300年の歴史を築くための必要な時代だったといえよう。

■家康の関東移封後

 天正14年に家康が駿府に移ったあとは、城代として菅沼定政が入城した。天正18年の小田原合戦後、家康が関東に移封すると、代わりに堀尾吉晴が入城した。石高は12万石である。

 慶長5年9月の関ヶ原合戦後、堀尾吉晴が松江城(島根県松江市)に移ると、以後の城主は徳川頼宣を除いて譜代大名が任じられた。それぞれの歴代城主が幕府の重役に就いたので、「出世城」と称されるようになった。もちろん出世には、家康も含まれている。

 今回、新しく発見された浜松城の堀や石垣は大変珍しいもので、天正18年から慶長5年の間に城主を務めた堀尾氏の時代に築かれた。9月26日から一般公開されるので、城郭ファンならずとも、ぜひ見ておくべきだろう。