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【「麒麟がくる」コラム】大河ドラマのキーマンである細川藤孝。明智光秀との関係とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
水前寺公園の古今伝授の間。細川幽斎は古今伝授を受けていた。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■細川藤孝と明智光秀

 大河ドラマ「麒麟がくる」には、重要人物として細川藤孝が登場する。信頼度の落ちる二次史料の『明智軍記』には、藤孝と光秀との邂逅についても触れられている。藤孝と光秀は、同じ織田信長の配下にあって昵懇の関係であり、藤孝の子・忠興と光秀の娘・玉は夫婦だった。次に、藤孝の経歴について述べておこう。

■藤孝の経歴

 天文3年(1539)4月22日、細川藤孝(幽斎)は室町幕府の申次衆・三淵晴員(みつぶち はるかず)の次男として誕生した。母は、12代将軍・足利義晴の側室(清原宣賢の娘)。実父は義晴ともいわれているが、根拠が乏しく疑わしい。幼名は万吉、のちに与一郎と称した。

 晴員は、和泉半国守護の細川元有(もとあり)の子だった。のちに三淵晴恒(はるつね)の養子となり、三淵を姓とした。通説によると、幽斎は伯父の細川元常(晴員の兄)の養子になったと言われている(『寛政重修諸家譜』)。現在、この説は誤りと指摘され、幽斎の養父は足利義晴の近臣・細川晴広だったという説が有力視されている。晴広は同じ細川家でも、淡路守護家の家柄だった。

■藤孝と光秀の出会い

 藤孝は幽斎と言われるが、それは雅号であり、出家してからは法名の「玄旨」を用いるのが正しい。藤孝は古今伝授(『古今和歌集』の秘伝の解釈を授かること)を受けた和歌の名手であり、教養人でもあった。藤孝と光秀の邂逅についても一次史料で確認できず、『綿考輯録』や『明智軍記』などの記述を頼るしかない。

 藤孝が足利義昭とともに越前を訪れたのは、永禄9年末である。仮に、光秀が越前に滞在していたとするならば、二人が出会ったのは永禄9年末以降のことになろう。『光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書』によると、藤孝は室町幕府の御供衆に列していた。軽輩の足軽衆だった光秀よりも、はるかに身分は高かったといえる。

 光秀は藤孝と会うなり、「このまま越前にいても朝倉氏は当てにならない。尾張・美濃を領する織田信長は今にも近江を併呑する勢いである。信長を頼るべきである」と述べ、熱心に勧めたという(『綿考輯録』)。光秀は諸国を回遊しており、あらゆる情報に通じていたように描かれている。

 ただし、義昭はこれまでも信長と謙信にたびたび出陣を要請していたのは周知のことで、わざわざ光秀に指摘されるまでもない。現在では、義昭が最初から朝倉氏を当てにしていなかったことが指摘されており、実に疑わしいエピソードである。

■藤孝と光秀の関係

 このエピソードを見る限り、当時、朝倉氏の厚い信任を得ていた光秀は、藤孝と対等の関係にあったかのような印象を受ける。しかし、光秀の死後の諸記録によると、決してそうではなかった様子がうかがえる。光秀と藤孝の関係を示す史料としては、『多聞院日記』天正10年6月17日条に以下のように書かれている(現代語訳)。

(光秀は)細川藤孝の中間(ちゅうげん)だったのを(信長により)引き立てられた。光秀は中国征伐(毛利氏征伐)の際に、信長の厚恩により派遣された。しかし、(光秀は信長の)大恩を忘れ、曲事(けしからんこと。この場合は信長を急襲したこと)をしでかした。天命(光秀が横死したこと)とはこのようなことだ。

 『多聞院日記』は、奈良の興福寺多聞院の僧侶・英俊(えいしゅん)が書いた日記である。奈良は京都にも近く、京都の公家などから情報提供を受けていたようである。同史料は一次史料であるが、伝聞を書き留めたこともあり、誤りも少なからずあると評価されている。ただ、間違えた際は、記事にその旨を記している。

■光秀は藤孝の中間だったのか

 『多聞院日記』の記述を見ると、光秀は藤孝の中間だったという。中間とは侍身分のなかでも下層に属し、さまざまな雑務を担っていた。仮に光秀が土岐明智氏の出身であったなら、とうてい考えられないほどの低い身分である。そのような光秀は、せっかく信長に登用されたのに、本能寺の変で恩を仇で返すような真似をした。

 当時にあって、いかなる事情があったとはいえ、「主殺し」は容認されていなかったようである、英俊は光秀の中間という身分について、明確な根拠をもとに書いたわけではないだろう。当時の人々の間では、光秀はもともと藤孝の中間だったという風聞が流れていたので、それを書き留めたにすぎないと思われる。

 藤孝と光秀の関係を示す史料は信憑性の低いものが多く、とても信用することができない。明らかにするには、質の良い史料の出現を待つしかないようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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