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【戦国こぼれ話】「倍返し!」はならず!?半沢直樹になれなかった真田信繁!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
知将として知られる真田信繁。本当に「打倒家康」を目論んでいたのか?(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■現代の下克上「半沢直樹」

 第8回目の放送が延期となった「半沢直樹」。主人公の半沢直樹が上司をやり込めるのは痛快で、多くの視聴者を得た。歴史で言えば下克上だ。「倍返しだ!」という半沢直樹のセリフは、流行語にもなった。とはいえ、戦国時代に時間を巻き戻すと、権力者に逆らった者は、悲劇的な結末を迎えることが多い。真田信繁もその1人である。なお、信繁は幸村ともいわれるが、以下、正しいとされる信繁で統一する。

■九度山に逼塞した真田信繁

 慶長5年(1600)9月に勃発した関ヶ原合戦において、真田昌幸・信繁父子は上田城(長野県上田市)を守備していたが、西軍は敗北。父子ともども九度山(和歌山県九度山町)に逼塞を余儀なくされた。すでに触れたように、九度山に蟄居していた昌幸は経済的な苦境に喘いでおり、とても「打倒家康」を考える余裕がなかった。昌幸は、無念の思いを抱いたまま病没したのである。こちら

 信繁は、妻子とともに屋敷に住んでいた。信繁の妻は大谷吉継の娘であり、2人が結婚したのはおおむね文禄年間頃と考えられている。ほかに妾が1人いた。そして、信繁と妻・妾との間には、2男6女の子供がおり、このうちの男2人と女3人が九度山で生まれたという。

 一説によると、信繁は父の昌幸と日々「打倒家康」の作戦を考えていたという。しかし、信繁の置かれた状況は、父・昌幸とさほど変わりがなかったようだ。

■やはり苦しかった信繁の生活

 年未詳9月20日付の信繁の書状(宛名欠)では、九度山での苦しい生活を推察いただきたいと述べた(「長井彦介氏所蔵文書」)。追伸では信繁が九度山で連歌を嗜んでいたことがわかり、機会があれば興行したいと記している。信繁が連歌を学んでいたことは、ほかの書状にも散見する。

 慶長18年頃に推定される12月晦日付の信繁の書状(真田家の重臣・木村綱茂宛)では、変わることなく過ごしているので安心するように述べる一方、冬の生活に不自由していると書いている(「宮沢常男氏所蔵文書」)。書状を送った目的は、歳暮として鮭を送られたことへの返礼であるが、信繁は窮乏した生活を察して欲しいとも述べ、綱茂にお目にかかりたいと書状を結んだ。

■カネに細かかった信繁

 また、信繁は経済的に厳しかったこともあり、少しばかり金銭に細かかったようである。

 慶長16年に推定される12月29日付の信繁の書状(池田長門守宛)には、お金に関することが細かく書かれている(『先公実録』)。信繁の窓口は、かつて昌幸とともに九度山に随行した池田長門守が担当していた。

 1条目には信繁の借金40両1分のうち、小判10両をたしかに受け取ったとある。3条目には池田長門守の代官所の慶長15年の算用状を受け取って拝見し、残りの金子2分、銀子14匁が届いたと書かれている。

 6条目には、池田長門守から銀子20匁をいただいたことはうれしいが(個人的な寄附)、気遣い無用と書かれている。池田長門守が寄附をしたのは、信繁の厳しい経済的状況を知っていたからだろう。

 7条目は寒い季節で普請が困難だったが、家が完成したので移ったとある。同時に、苦しい生活を推察してほしいと書かれている。書状の冒頭に信繁の屋敷が火事にあったとあるので、そのため家を新築したのだった。これには費用がかかったはずであり、急な経費負担は信繁をますます窮状に追い込んだことであろう。

■焼酎がこぼれないよう指示

 信繁は、意外にも酒好きであったことが知られている。

 6月23日付の信繁の書状(信之の家臣・河原左京宛)によると、信繁は左京に対して自身で用意した壷に焼酎を詰めて欲しいと依頼し、もし手元に無いようだったら、次の機会にぜひお願いしたいと書いている(「河原文書」)。

 さらに、焼酎を壷に詰めた際は壷の口をよく閉め、その上に紙を貼って欲しいとし、焼酎がこぼれることを心配していた。そして、連絡があり次第取りに行かせるとある。信繁は追伸で重ねて焼酎のことを依頼しているので、かなりの酒好きだったようだ。

■異様な風体だった信繁

 ところで、信繁の風体はどのような感じだったのだろうか。

 大坂の陣の直前、大坂城に入城した信繁は、出家して「伝心月叟」と名乗り山伏のような姿をしていたという(『武林雑話』)。

 書状には「真好白信繁(「真」は真田の略)」と署名が書かれているものもあり、出家をうかがわせている。また、別の書状には「左衛門入(「入」は入道の略)」と書かれており、だいたい父の死を前後として、剃髪した様子が知られる。

 通説によると、信繁が出家した時期は、昌幸が病没した翌年の慶長17年のことと指摘されているが、実名の「信繁」を同時に用いているのは疑問である。信繁の出家については、さらに検討を要しよう。

■信繁には「打倒家康」を考える余裕なし

 慶長17・8年頃に推定される2月8日付の信繁書状(姉婿・小山田茂誠宛)の追伸には、年をとったことが悔しくてならないこと、昨年から突然老け込んで思いがけず病人になってしまったこと、すっかり歯が抜けてしまったこと、髭なども黒いところが少なくなり白髪が増えたこと、などが記されている(「岡本文書」)。

 このように信繁の日常生活をみると、生活は貧しく容貌も衰え、酒で日々の憂さを晴らす姿しか浮かんでこない。「打倒家康」は微塵も考えなかったようだ。

 結局、信繁は慶長19年にはじまる大坂の陣に出陣。豊臣方に与して、家康と戦った。しかし、翌年に無念にも戦死し、「倍返しだ!」の半沢直樹にはなれなかったのである。

 蛇足ながら「半沢直樹」で主人公を演じているのは、堺雅人さん。大河ドラマ「真田丸」で主人公を演じているのも、堺雅人さん。奇妙な偶然である。

【主要参考文献】

渡邊大門『真田幸村と真田丸 大坂の陣の虚像と実像』(河出ブックス、2015年)

渡邊大門『真田幸村と真田丸の真実 徳川家康が恐れた名将』(光文社新書、2015年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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