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「ベトナム残留日本兵だった養父の人生をもっと知りたい」59歳女性が探す真実

若林朋子北陸発のライター/元新聞記者
添野江実子さんの養父・綱河忠三郎さん20代のころ。濃い眉と長身が特徴(本人提供)

 茨城県土浦市に住む添野(旧姓は綱河)江実子さん(59)は2015年1月に自分が養子だと知り、「真実を知りたい」と親戚や古い知人に聞き取りを進める過程で、養父・綱河忠三郎さん(2002年に82歳で死去)がベトナム残留日本兵だったと知った。1945年夏、ベトナムで終戦を迎えたとは聞いていたが、すぐに引き揚げてきたとばかり思っていた。「捕虜になったわけでもないのに、なぜ帰国しなかったのか?」「終戦から帰国までの9年間、ベトナムのどこで、何をしていたのか?」。添野さんは、戦中・戦後を懸命に生きた養親の人生に思いを巡らせる。

※参考

「養親は私を大切に育ててくれた。でも、生みの親が誰か知りたい」59歳女性が探す真実

https://news.yahoo.co.jp/byline/wakabayashitomoko/20190823-00139442/

「ベトナム残留日本兵」について調べてみた。第二次世界大戦後に日本兵はアジア各地に日本兵が残留している。残留した動機は、戦犯になることを恐れたり、敗戦国となった日本に絶望したり、アジア諸国の独立を支援したいと考えたり、現地で任務・労働を課されたり、上官に誘われたりとさまざまだ。環境や軍人としての立場によっても違い、拘束された場合もあれば、自由な意志で残留するケースもあったらしい。

 インドシナ、つまり現在のベトナム・カンボジア・ラオスで残留日本兵は700~800人以上といわれ、そのうち600人は、ベトナムがフランスから独立するための第一次インドシナ戦争に参加し、半数が戦病死したとされる。彼らは独立後、「新ベトナム人」という戸籍を得て結婚、家族をもうけた人もいる。

忠三郎さんは1954年11月30日に帰国

 その後、国際情勢の変化からベトナム残留日本兵は帰国を余儀なくされ、第一次インドシナ戦争が終結した後、数回に分けて日本へ戻ることになる。第一次帰国団71人は家族がいても単身での帰国しか認められず、1954年11月30日に京都府の舞鶴港へ到着。忠三郎さんはこの1人だった。忠三郎さんの生涯をたどると、次のようになる。

・1920年(大正9年)2月に栃木県茂木町で誕生

・1940年(昭和15年)20歳で出征し、陸軍歩兵第86連隊として中国を転戦

・1945年(昭和20年)25歳、3月にベトナム入りし、終戦をヴィンで迎える。8月21日に6人で離隊

・1954年(昭和29年)34歳、ベトナムから中国を経て第一次帰国団として「興安丸」で11月30日に日本へ帰国

・1956年(昭和31年)36歳で秋子(33歳)と結婚、茨城県土浦市内の引揚者住宅に住む

・1959年(昭和34年)38歳で江実子を養子に迎える

・1970年(昭和45年)49歳の時、秋子が死去

・1973年(昭和48年)52歳で再婚

・2002年(平成14年)4月20日、82歳で悪性リンパ腫により死去

養父がベトナムで過ごした9年間の足取りを探すため、添野さんは3度ベトナムに足を運んでいる。観光地で父の似顔絵を依頼すると、顔立ちは同行していた長女に似せて描かれた(筆者撮影)
養父がベトナムで過ごした9年間の足取りを探すため、添野さんは3度ベトナムに足を運んでいる。観光地で父の似顔絵を依頼すると、顔立ちは同行していた長女に似せて描かれた(筆者撮影)

「仏印からの帰還者名簿」にあった「逃亡」という表記

 添野さんは、忠三郎さんの出身地の兵籍簿から所属部隊を調べ、防衛研究所を訪ねて、引揚げ船「興安丸」で帰国した生存者や家族に会って情報提供を求めた。第一次帰国団のなかには、筆者が住む富山県を含め、北陸出身者も多かったそうだ。

 また、厚生労働省恩給局に「仏印からの帰還者名簿」の閲覧を依頼したところ、「昭和20年に6名で逃亡」という表記を見つけたものの、忠三郎さん以外は全員が帰国することなく亡くなっていた。「父と行動をともにした5人の遺族に会いたい」と願ったが、個人名や詳細を黒塗りした書類しか見ることはできなかった。

「父は陸軍歩兵第86連隊としてベトナムのヴィンで終戦を迎えましたが、連隊と共に帰国せず、離隊して残留。旧日本兵として、ベトナム独立同盟(ベトミン)に参加し、1954年に帰国したことまでは分かりました。帰国するまで、どこで、何をしていたのか。なぜ9年間もベトナムに残ったのか。私は父の人生にまつわる真実を知りたいのです」

ハノイのホアンキエム湖。添野さんは「父がここにいたかも」と思いながら歩いた(本人提供)
ハノイのホアンキエム湖。添野さんは「父がここにいたかも」と思いながら歩いた(本人提供)

 

 添野さんと長男・長女は「ベトナムにいた9年間について、じいさんはなぜ何も語らないまま死んだんだろう」と疑問を口にした。帰還者名簿の「逃亡」という記載から、「離隊したことや、何らかの事情が口を閉ざさせたのだろうか」と推測する。

 添野さんは2015年3月、17年9月、19年3月とベトナムに足を運んで調査してきた。しかし、養父がベトナムで過ごした9年間の足取りを確かめる手掛かりは何も得られていない。栃木県茂木町で生まれ、幼少期に両親を亡くして進学はかなわず、中国へ出征。ベトナムで終戦を迎え、ベトナム独立に奮闘し、単身で引き揚げ……。手を尽くして調べても、これ以上の個人史は埋もれたままだ。

ドキュメンタリー映画『私の父もそこにいた』を自主制作

 添野さんは「生前に自分が養子であることを父が打ち明けてくれていたら『もっと親孝行したい』と思ったはず。何とかしてベトナムへ連れていったのに……」と残念がる。目元がぱっちりとした自分の顔立ちに、「生みの母はベトナム人ではないか」と考えたこともあるそうだ。

 添野さんは3度のベトナム訪問と、国内外で聞き取ったベトナム残留日本兵に関する証言を、自主制作のドキュメンタリー映画『私の父もそこにいた』(約40分)としてDVDにまとめた。日本語だけでなく、ベトナム語の字幕も入っている。約20カ所で上映会を開催してきた。映画を作ったことによってベトナムに関わる多くの人との出会いがあり、かつて養父が暮らした国をもっと深く知りたいと思うようになった。

「父とベトナムの出会いは不幸な戦争がきっかけだったけれど、私はベトナムと日本の絆をつなぐ活動や、子どもの教育支援に携わっていきたい。活動する中で父を助けてくれた人の子孫との出会いがあるかもしれないですから」

映画『私の父もそこにいた』について語る添野さん。周囲からは「DVDまで作る情熱はすごい!」という声が聞かれる。本人は「根底にあるのは『父のことを知りたい』という執念です」と話す(筆者撮影)
映画『私の父もそこにいた』について語る添野さん。周囲からは「DVDまで作る情熱はすごい!」という声が聞かれる。本人は「根底にあるのは『父のことを知りたい』という執念です」と話す(筆者撮影)

私のように、誰かが父を探しているかも……

 忠三郎さんがベトナムにいたのは25歳から34歳まで。出征時に未婚だったことから、ベトナムで結婚し、妻子を残して帰国した可能性もある。

「私が生みの親を探すように、誰かが父(忠三郎さん)を探しているかもしれません。生前の父の話によると、父を帰国させようと誰かが移動手段として自転車を買い与えてくれたそうです。当時のベトナムでは自転車はとても高価だったはず。なのに蓄財を投じて父を支えた人がいた。妻とその親族か、そうでなくても恋人か親友などでしょう。日本に帰そうとしてくれた恩人がいたことは確か。その人に会ってお礼を言いたいのです」 

「ベトナムで最も有名な橋」といわれるハノイのロンビエン橋。今ではバイクが普及しているものの、自転車に乗っている人の姿も(添野さん提供)
「ベトナムで最も有名な橋」といわれるハノイのロンビエン橋。今ではバイクが普及しているものの、自転車に乗っている人の姿も(添野さん提供)

 ちなみに、筆者も生まれて間もなく母を亡くしたことから生後半年以降、養子縁組家庭に育っている。育ての父は旧朝鮮(韓国)の大邱で生まれて終戦直後に引き揚げてきた。結婚後、子宝に恵まれなかったため、妻の提案をきっかけに養子縁組を検討した。その時、背中を押したのは養父の母、つまり筆者の祖母だったようである。祖母は姪が孤児となり、戦後の混乱期に児童養護施設へ入ったことを、「貧しくても引き取ってやればよかった」と終生、悔やんでいた。祖母の言動を踏まえて忠三郎さんの生き様を考えると、「父はわが子を(ベトナムに)置いて帰国したことから、罪滅ぼしのような思いで私を育てたのではないか」という添野さんの推理には、説得力を感じる。

 また、ベトナムの憲法に「家庭は、社会の細胞である。(中略)父母は、子どもを養育し、より良い市民に成長させる責任がある」という記述がある。忠三郎さんは、家族や親子のつながりを尊重するベトナムの家族観や、親交のあったベトナム人の家族愛に触れ、「帰国して結婚したら、早く子どもがほしい」と思ったのかもしれない。いずれにせよベトナムでの9年間の体験は、添野さんと親子関係を結ぶに至った動機となっているのではないだろうか。

 ハノイ市内の博物館にて(添野さん提供)
ハノイ市内の博物館にて(添野さん提供)

 

 忠三郎さんは最晩年、半年ほど入院し、苦しい闘病生活を強いられた。添野さんは看病しながら「妙に他人行儀なところがあるなぁ。してほしいことがあれば言ってくれればいいのに……」と感じたそうだ。当時、「父は子育てに忙しい私を気遣っている」と思ったが、どんな思いがあったのだろうか。

 また、入院先の病室のベッドに「血液型O型」と書いてあり、「あれ?」とも思った。母・秋子さんはO型で、添野さんはB型。忠三郎さんはずっと自身の血液型を隠していた。しかし、よもや養子とは思わない。死の床にある父を追及するまでは至らなかった。今となっては、養父の口から真実を聞くことはできない。

養子や里親から悩みを打ち明けるメッセージ

 新聞・テレビの報道により、添野さんの活動に関心を抱いた数人からSNSなどを通じていくつかのメッセージを受け取った。残念ながら「生みの親」「育ての親」の真実につながる情報ではなく、相談だった。養子当事者からの「生みの親を探す方法を教えてほしい」という依頼や、里親が里子に生い立ちを語る際の悩みを打ち明ける内容である。

 現在の日本の養子縁組は、「普通養子縁組」、「特別養子縁組」とも戸籍をたどれば生みの親が分かる。また、新生児の段階で特別養子縁組をした場合でも、「子どもの知る権利」を尊重し、生みの親探しをタブーとしていない。特別養子縁組や里親制度に関わる団体などは育ての親に対し、「子どもが物心つくころから年齢に応じて生い立ちや生みの親についての情報をオープンに語っていくべき」と勧めている。

 その理由はいろいろある。子どもがずっと後になって真実を知ったとき、「嘘をつかれた」と感じて育ての親に不信感を覚えたり、第三者から聞かされてショックを受けたりしないため。また、近親婚の危険を回避したり、遺伝性の疾病リスクを知ったり……という目的もある。養親や里親に現状を聞いてみると、「誠実な気持ちで子育てをしたい」「子どもに隠し事をしたくない」という思いからオープンに語るという声が少なくない。また昨今、市販のキットなどで簡単にDNA鑑定などができることから、「隠し続けることは、ほぼ不可能」という認識もある。

 筆者は20歳のころ、生い立ちや養子縁組に至った経緯を知り、後に肉親やその家族との再会・交流も果たした。「出自を知る権利」を行使するかどうかは、養子の自由だろう。生みの親について、「知りたくない」「会わない」という選択もできる。誰かから「聞かされる」のではなく、主体的に真実を知るタイミングを決め、行動し、知りたい情報にたどり着けることが重要だと感じている。一方で、肉親とその家族への配慮も必要だろう。再会を望んでも会えなかったり、想定外の事実を知ったりするかもしれないが、それを受け止める覚悟も求められるように思う。

 筆者の場合は、生みの親が誰かを知りたいと思ったし、肉親やその家族と会うことで「自分の人生の空白が埋まった」と感じた。肉親の病歴も把握できている。真実を知ったからといって、育ててくれた両親を、他人のように思うことはなく、むしろ信頼関係は深まった。このような経験から、「真実を知りたい」と熱望する添野さんの話を聞いてみたいと思った。

「生みの親は誰か」

「なぜ生みの親は自分との別れを選んだのか」

「育ての親がどんな思いで自分を迎えたのか」

「生みの親、育ての親それぞれの子、つまり(自分にとっての)“きょうだい”はいるのか」

 添野さんの幼少期の姿と養父・綱河忠三郎さんの写真が1人でも多くの人の目に触れ、添野さんの探し求める真実が見つかることを切に願っている。

小学生のころの添野さん(写真右、本人提供)
小学生のころの添野さん(写真右、本人提供)

※参考文献

・『日越関係発展方途を探る研究/ヴェトナム独立戦争参加日本人――その実態と日越両国にとっての歴史的意味』(井川一久著、東京財団研究報告書、2006年5月)

・『残留日本兵/アジアに生きた1万人の戦後』(林英一著、中公新書、2012年7月)

・『帰還せず/残留日本兵六〇年目の証言』(青沼陽一郎著、新潮文庫、2009年8月)

・『クァンガイ陸軍士官学校/ベトナムの戦士を育み共に闘った9年間』(加茂 徳治著、暁印書館、2008年5月)

・月刊Hanadaプラス/2018年5月21日「現場をゆく 門田隆将/ベトナム『残留日本兵家族』が教えてくれるもの」

・独立行政法人国際協力機構(JICA)「ベトナム社会主義共和国憲法の概要」

・『里親と子ども』vol.9「養子縁組あっせんと『真実告知』-当事者の立場から」(若林朋子著、明石書店、2014年10月)

北陸発のライター/元新聞記者

1971年富山市生まれ、同市在住。元北國・富山新聞記者。1993年から2000年までスポーツ、2001年以降は教育・研究・医療などを担当した。2012年に退社しフリーランスとなる。雑誌・書籍・Webメディアで執筆。ニュースサイトは医療者向けの「m3.com」、動物愛護の「sippo」、「東洋経済オンライン」、「AERA dot.」など。広報誌「里親だより」(全国里親会発行)の編集にも携わる。富山を拠点に各地へ出かけ、気になるテーマ・人物を取材している。近年、興味を持って取り組んでいるテーマは児童福祉、性教育、医療・介護、動物愛護など。魅力的な人・場所・出来事との出会いを記事にしていきたい。

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