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ISL初の日本人選手、遊佐克美とは何者か?<前篇>(『宇都宮徹壱ウェブマガジン』より転載)

宇都宮徹壱写真家・ノンフィクションライター
クリケットが国技のインドだがISL創設を契機にサッカー人気も高まりつつある。

「インドで頑張っている日本人選手」といえば、このほどU-17ワールドカップ出場を決めたU-16日本代表を思い浮かべるかもしれない。今回ご紹介するのは、10月1日から開幕するISL(インド・スーパーリーグ)に「初の日本人選手」として参戦する、遊佐克美というフットボーラーの物語である。

ISLとは、既存の国内リーグ(Iリーグ)とは別に、10月から12月にかけて行われる新しいリーグで2014年から始まった。世界中の(元)スーパースターが期間限定でプレーすることで知られ、これまでアレッサンドロ・デル・ピエロ(元イタリア代表)、ニコラ・アネルカ(元フランス代表)、ロベルト・カルロス(元ブラジル代表)といった往年のレジェンドたちがインドに渡って話題になった。

そんな中、遊佐がプレーするのは、アッサム州グワーハーティーを本拠とするノースイースト・ユナイテッドFC。最近、元U-20日本代表のカレン・ロバートが同クラブに加入することが報じられたので、ご記憶の方もいらっしゃるだろう。ジュビロ磐田、ロアッソ熊本を経て、オランダ、タイ、韓国のクラブを渡り歩いたカレンのキャリアは、確かにに起伏に富んでいる。しかし3歳下(現在28歳)の遊佐のキャリアは、カレン以上に波乱に満ちて謎めいたものであった。

サンフレッチェ広島ユースから07年にトップチームに昇格。その後、3シーズンを広島で過ごしたものの、公式戦出場はわずかに3試合にとどまる。3年目の09年には、当時北信越1部だったツエーゲン金沢に期限付き移籍するも振るわず。最後は県1部だったFC岐阜SECONDに移籍して、09年いっぱいで日本でのキャリアを終えている。ここまでは、よくある話。ところが遊佐のフットボール人生は、突拍子もない方向に転がってゆく。南米パラグアイへ、さらにインドに活路を求め、ついにはインドの名門クラブ(設立は1889年!)のモフン・バガンACで背番号10を与えられた。

果たして、広島を解雇された男はどのような過程を経て、インドでスター選手になったのか? そこには、いかにもありがちな「サクセス・ストーリー」とは真逆の現実があった。今回は、遊佐がエージェント契約をしている株式会社ジェブエンターテイメントのご厚意により、6月に帰国していた当人への取材が実現。『宇都宮徹壱ウェブマガジン』で掲載されたインタビューを、一部編集してここに転載する。

■ISL初の日本人プレーヤー

──遊佐さんがインドに渡ったのは2011年。ですので、向こうの生活は5年になりますか?

遊佐 そうなんですが、最初のシーズンは1月から6カ月間。次のシーズンにチーム(ONGC FC)が2部に落ちてしまったので、翌年の1月から半年間。3年目がフルでプレーしました。だから年数だと5年半で、シーズンでいうと6シーズンを終えたところですね。

──となると、インドでのプレーや生活もだいぶ慣れたと思いますが。

遊佐 インドでは「仕事」という感じですかね。まだサッカーが楽しいという感じではなくて、毎日一生懸命仕事をしているっていう気持ちでやっています。最初の頃は「インド経由でヨーロッパへ」みたいな夢を思い描いていたこともありましたが(笑)、そんなに甘い世界ではない。だから「仕事でここにいる」という想いが、今は強いですね。

──そんな遊佐さんが今回、初のISLプレーヤーとしてノースイースト・ユナイテッドFCの一員となるわけですが、これはドラフトで指名されたんでしょうか?

遊佐 いえ、ジェブ(エンターテイメント)さんを介してインドの代理人とやりとりをしている中で、クラブ側から打診があって、正式にオファーをいただいたのが4月でした。

──ISLは毎年10月から12月まで開催されますが、選手は毎年入れ替わるわけですか?

遊佐 基本はそうですが、複数年契約を結んでいる選手もいて、彼らはISLからのローンという形でIリーグでもプレーしています。ISLの契約期間は8月から12月。それが終わると、Iリーグは1月から5月までやっているのでローンでプレーしている選手もいます。

──遊佐さんの場合、現在所属しているモフン・バガンとの契約はまだ残っていますか?

遊佐 モフン・バガンとは2年契約を結んでいて、まだ1年残っています。ですので、モフン・バガンからの期限付き移籍ということで、ノースイースト・ユナイテッドでプレーすることになります。ただし給料はフィフティ・フィフティですね。

──なるほど。ところでオーナーのジョン・エイブラハムという人は、ボリウッド俳優としても有名だそうですね。お会いになりました?

遊佐 会いました。すごくカッコよくて、親日家でしたね。だから僕を獲ったということではないと思うんですけど、ずっとIリーグの試合を継続的に見ていて、90分間諦めない姿勢を買ってくれたみたいです。「今季こそは(プレーオフに進出するために)トップ4に入る」というのがオーナーの目標で、そのために必要な選手だと思ってくれたようです。

──ISLでプレーオフに進出するのは、非常に難しいんでしょうか?

遊佐 けっこう大変ですよ。レギュラーシーズンが14試合あって、それを2カ月ちょっとで消化するんですが、インドはとにかく広いから移動と環境の変化に慣れるのが難しい。だから海外から獲った名のある選手でもギブアップすることがありますね。前はウチもシモン・サブローザ(元ポルトガル代表)とかジョアン・カプデビラ(元スペイン代表)とかいたんですけど、「今年はとにかく動ける選手を」ということで、僕を最初の外国人選手として獲得したようです。

──動けること以外に、遊佐さんが期待されていることってありますか?

遊佐 外国人選手とインド人選手のつなぎ役ですかね。レギュレーションで、ピッチにいる11人のうち、5人はインド人を使わないといけないんです。ただ、インド人は外国のスター選手をリスペクトしすぎて、自分たちだけでグループを作ってしまう傾向があるんですよ。その点、僕はどちらともコミュニケーションが取れますから、そういうところも期待されているんだと思います。

インタビューに応じる遊佐選手。インドでプレーすることは「仕事」と言い切る。
インタビューに応じる遊佐選手。インドでプレーすることは「仕事」と言い切る。

■広島と金沢を同時に解雇されて

──ここで遊佐さんのキャリアを振り返りたいのですが、出身は福島市で広島ユース育ち。広島での生活が始まったのは?

遊佐 中学3年の2学期終了後ですね。3学期から広島の中学に編入して、そこから県立吉田高校に入ることになっているので。広島に来たら、中学校に通って、練習して、受験勉強して、その繰り返しでした。

──福島から遠く離れた広島での寮生活。ホームシックになったりしませんでしたか?

遊佐 ホームシックはそんなになかったんですけど、サッカーのレベルが明らかに違っていたので、「やばいところに来たなあ」って思いましたね。あと、広島の「じゃけえの」って言葉が、何だか怒っているみたいで(笑)、最初は怖かったですね。

──それでも努力の甲斐あって、07年に広島のトップチームに昇格します。背番号は23。ところが、ほとんど出番がありませんでした。今にして思えば、どこに原因があったと思います?

遊佐 まず、プロが何たるかをわかっていなかった。ユースの延長上みたいな考えから、何となく「試合に出られるんじゃないか」と。でも実際は、そんなに簡単なことでないことに気づいて、壁にぶち当たるという。まあ、誰もが経験することだと思うんですが、僕は文句ばかり言って、試合に出られないことを誰かのせいにしていましたね。

──当時の監督は、今は浦和レッズで指揮を執るミハイロ・ペトロヴィッチでしたね。ミシャさんからは、どんなことを言われていました?

遊佐 監督からは期待されていたと思うんです。駒野(友一)さんが抜けてからは、主力組のサイドのポジションで練習もしていました。でも、ワンタッチでのサイドのプレーがなかなか難しくて。結局、当時の僕にはそこまでのクオリティもなければ、(他のライバルとの)違いも出せなかったんだと思います。それを、ずっと他人のせいにしていました。

──結局、3シーズン目の09年途中で、当時北信越リーグだったツエーゲン金沢(現J2)にレンタルで出されます。これはご自身の希望ですか?

遊佐 チームから話があって「あとは自分で決めろ」って言われて。ちょうど3年目で給料がガンと下がったこともあって、行くことにしたんですけど。でも、舐めていましたね。カテゴリーが低いからって、自分勝手で調子に乗ったプレーをしてしまって、上手くいかないとまた周りのせいにして。実はクビになる前、1週間くらい広島ユースに返されたことがあったんですよ。「遊佐はこのままではダメだから、一度原点に戻ってやり直せ」ということで、ユースの練習に参加させてもらって、監督だったゴリさん(森山佳郎=現U-16日本代表監督)ともいろいろしゃべって、反省の意味をこめて丸坊主にして。

──そこまでやって、生まれ変われました?

遊佐 いえ、金沢に戻っても、何も変わっていなかったですね。僕自身もそうだし、僕のチームでの立場も。すぐに試合に出られると思ったら、天皇杯予選も出してもらえなくて。結局、8月で金沢からも広島からもクビを言い渡されました。

──そうでしたか……。その後、FC岐阜のセカンドチームであるFC岐阜SECOND(当時県1部。現東海1部)に移籍します。岐阜とのつながりは?

遊佐 広島のGMだった今西(和男)さんが当時、岐阜の社長だったんです。広島で1年目が終わったときに、岐阜からレンタルの話があって、それで一度だけ今西さんとはお会いしているんですね。行くところがなかったので、岐阜でお世話になることになって。僕、この年の全社(全国社会人サッカー選手権大会)も出ているんですよ。でも松本山雅戦で退場になって、それで今西さんから反省文を書くように言われて(苦笑)。

──いやあ、踏んだり蹴ったりでしたねえ、この年は。

遊佐 すべて自分のせいですけどね。今こうやってサッカー続けられていることが、奇跡のようですよ(笑)。

■「とにかくサッカーでお金をもらえる生活がしたい」

──岐阜セカにいた時、給料は出ていたんですか?

遊佐 いえ、アマチュアだったし、プレーの場を与えられただけでしたから。広島からは半年分の給料を一括でもらっていたので、それを切り崩しながら、あとは週3~4回くらい岐阜のパチンコ屋でバイトしていました。

──結局、09年いっぱいで岐阜セカを退団して、次に向かったのがパラグアイ。これはまたどういう経緯で?

遊佐 岐阜にいた選手から、ある代理人を紹介されて「2部だけど、サン・ロレンソに行ってみないか」と言われました。

──「行ってみないか」といっても、要するにサッカー留学みたいなものですよね? 渡航費も滞在費も自分持ちで、しかも練習には参加できても使ってもらえる保証はまったくないという。

遊佐 まさにそんな感じでした。渡航費と10カ月の滞在の費用ということで、一括で90万円支払って。当時は何も考えていなかったんでしょうね。ただ「海外に行けば何とかなる」って感じで。

──向こうではどんな暮らしだったんですか?

遊佐 代理人が同じだった日本人選手と(首都の)アスンシオンで一軒家をシェアしていました。でも、その代理人とは契約解除して、自分で月1万5000円くらいのマンションに移り住んで、そこで3カ月くらい暮らしましたね。

──その間、出場機会はあったんですか?

遊佐 ちょうど監督が代わって、3試合くらい出場して2点決めたんです。でも、その監督もまたクビになって。結局、20試合の間に監督が4人替わりましたね。それでも「ここで頑張れば何とかなる」って、無邪気に考えていました。馬鹿でしたね(笑)。

──そこからインドへの道は、どう拓けていったんでしょうか?

遊佐 シーズンが終わりかけていた時に、同郷で広島でも一緒だった(高萩)洋次郎くんに「今はこういう状況なんだ」って連絡したら、ジェブさんを紹介してもらったんです。そこで代理人の田辺(伸明)さんにお会いして、「とにかくサッカーでお金をもらえる生活がしたい」ということを伝えましたね。

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写真家・ノンフィクションライター

東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。『フットボールの犬』(同)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)で2016サッカー本大賞を受賞。2016年より宇都宮徹壱ウェブマガジン(WM)を配信中。このほど新著『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)を上梓。お仕事の依頼はこちら。http://www.targma.jp/tetsumaga/work/

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