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田中邦衛さん主演『北の国から』は、いかにして生まれたのか?

碓井広義メディア文化評論家
北海道・富良野のラベンダー(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

3月24日に亡くなった、俳優の田中邦衛さん。

主演を務めた『北の国から』が始まったのは、1981年(昭和56年)でした。

今年は「放送開始40周年」となります。

『北の国から』の誕生

脚本家の倉本聰さんから、直接うかがった話ですが、フジテレビからの最初のオファーは、「映画『キタキツネ物語』(78年)のようなものを書いてほしい」だったそうです。

『キタキツネ物語』は、蔵原惟繕(くらはら これよし)監督が、知床の斜里町や網走で4年も粘って撮った作品。

テレビドラマで、そんな制作体制など「とても組めないはずだ」と倉本さんは断りました。

すると今度は、日本版『アドベンチャーファミリー』(77年)はどうかと言われます。

この映画は、ロサンゼルスで暮らしていた一家が、何もないロッキーの山中に移住する物語です。

北海道には「映画に匹敵するような場所はない」と、倉本さんはこの案も退けました。

しかし、フジテレビ側の返事は、「テレビを見るのは主に東京の人だから、雰囲気で構わない」。

これに倉本さんは激怒します。

北海道を舞台にドラマを作って東京の人に見せるからと言って、「北海道の人間が、嘘だ!と思うようなものは作るべきではない」からです。

思えば、『前略おふくろ様』(75~76年、日本テレビ系)も、プロの板前さんが見て納得できるドラマでした。

結局、倉本さん自身が、新たに企画書を書くことになります。

このドラマがスタートする数年前、倉本さんは東京から北海道の富良野へと移住していました。

原生林の中に家を建て、冬は零下20度という見知らぬ土地で暮らし始めたのです。

ドラマで描かれていた、黒板五郎(田中邦衛)の苦労の数々は、実は倉本さん自身の体験でもありました。

『北の国から』と80年代

やがて「バブル崩壊」と呼ばれる結末が来ることなど想像もせず、世の人びとは右肩上がりの経済成長を信じ、好景気に浮かれていました。

仕事も忙しかったですが、繁華街は深夜まで煌々(こうこう)と明るく、飲み、食べ、歌い、遊ぶ人たちであふれていました。

そんな時代に都会から地方に移り住み、あえて「不便な生活」を始める一家が登場したのです。

このドラマは、一体何なのか。

最初は少し戸惑った視聴者も、回数が進むにつれ、徐々に倉本さんが描く世界から目が離せなくなります。

そこには、当時の社会に対する、「これでいいのだろうか」という倉本さんの問いかけがあったからです。

また、「生きるための知恵を忘れていないか」という明確なメッセージがありました。

現在へとつながる様々な問題が噴出し始めた時代、それが80年代です。

世界一の長寿国となったことで到来した「高齢化社会」。

地方から人が流出する現象が止まらない「過疎化社会」。

何でも金(カネ)に換算しようとする「経済優先社会」等々。

一筋縄ではいかない課題ばかりが並んだのです。

「家族の物語」としての『北の国から』

それだけではありません。「家族」という名の、共同体の最小単位にも変化が起きていました。

「単身赴任」が当たり前になり、父親が「粗大ごみ」などと呼ばれ始めます。

また、今や普通に使われる「家庭内離婚」や「家庭内暴力」といった言葉も、この頃に登場してきました。

こうした時代を背景に、このドラマには、視聴者が無意識の中で感じていた、「家族」の危機と再生への願いが込められていたのです。

黒板五郎を演じる、田中邦衛という絶妙な俳優を得たことで、『北の国から』は、涙と笑い、そして苦味も伴う「家族の物語」として具現化していったのでした。

メディア文化評論家

1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶大助教授などを経て、2020年まで上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。著書『脚本力』(幻冬舎)、『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮社)ほか。毎日新聞、日刊ゲンダイ等で放送時評やコラム、週刊新潮で書評の連載中。文化庁「芸術祭賞」審査委員(22年度)、「芸術選奨」選考審査員(18年度~20年度)。

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