Yahoo!ニュース

『同期のサクラ』と並ぶ、新機軸ドラマだった生田斗真主演『俺の話は長い』

碓井広義メディア文化評論家
番組サイトより

先週末、生田斗真主演の『俺の話は長い』(日本テレビ系)が最終回を迎えました。「そうかあ、終わっちゃうのかあ」と、ちょっと寂しく思った人、少なくないと思います。

このドラマ、毎回、2本立てで放送するというスタイルが話題になりましたが、それ以上に内容が新鮮でした。今期の『同期のサクラ』と並ぶ、日テレの新機軸というか、トライアル作品であり、かなり個性的でクセの強い1本だったからです。つまり、ハマる人は、どハマりする。

主人公の岸辺満(生田)は起業に失敗した後、6年も無職を続けてきた、堂々のニートです。いわゆる就職活動はしていなくて、時々小さなバイト(草野球の審判とか)をする程度。しかも、「自分には働かなくていい才能がある」と主張する、ちょっと変わったニートでもあります。

もともと満は、実家で喫茶店を営む母親・房枝(原田美枝子)と暮していました。そこへ姉の綾子(小池栄子)が、家のリフォームを理由に夫の光司(安田顕)や娘の春海(清原果耶)と共に転がり込んできます。

静かな2人暮しだったものが、突然、5人家族になった。いや、だからと言って、何か事件や大きな出来事が起きるわけではありません。あくまでも、満を中心とした岸辺家の「日常」が淡々と描かれていくのです。

朝食や夕食をとる1階の居間が、何かと家族が集まる場所になっているのですが、ここで交わされる家族の「会話」が、このドラマの中では大きなウエイトを占めていました。

何しろ、満が、まあ、とにかく、よくしゃべるんですね。しっかり者の姉にとっては、ニートの弟は気がかりで、就職のことなどよく話題にあがるのですが、満は弁解どころか、滔々と「働かないこと」について語って一歩も引きません。しかも返す刀で、相手の抱えている課題について斬り込んでいく。

カギは、満の「聞く力」

このドラマでは、そんな満の屁理屈のような、無駄話のような、でも、どこか正論めいた独特の「持論」を延々と聞かされます。確かに、「俺の話は長い」わけで。

たとえば、昔見た映画のタイトルが思い出せない時、「スマホで検索すれば」と提案されると、「最短時間、最短距離で歩く人生に、おもしろい木の実は落ちていないよ」と説く。聞いていると、スマホ社会、検索社会のちょっとした落とし穴、盲点を突いているような気がしてくるから不思議です。

またハロウィーンに便乗しようと、母親の喫茶店で相談する商店街の人たちに対して、「世間の浮ついた波にのみ込まれて、本当に残さなくちゃいけない祭りや花火大会が廃れていく」とクギを刺したりもします。その言葉には独特の説得力があり、聞く側もふと我に返ったり、自問したりするので、侮れない。

そんな満のふるまいは、自分の主張を他人に押しつけるだけの、単なる我がまま男と思われてしまいがちです。しかし、よく見ていると、満は相手の話をしっかり聞いているんですね。

当たり前と言えば当たり前で、相手の話をよく聞いているからこそ、その内容の矛盾や問題点を指摘できる。その上で、自分の思うところを目いっぱい語ることもできるわけです。満は、「話す力」もさることながら、この「聞く力」を持っていたのではないでしょうか。

「ホームドラマ」であり「哲学ドラマ」!?

たとえば、プラトンの『饗宴(きょうえん)』でも、ソクラテスは哲学的エロスについて大いに語るのですが、その前に、パイドロスだのアガトンだの周囲にいる面々の話をしっかり聞いています。

ソクラテスは、かれらの話を踏まえて、「さて、アガトン、きみが言ってくれたように、最初にエロスとは何者で、どのような存在なのかについて語り、その後、エロスはどんな働きをするのかについて語らなければならない」などと言って、自らの論を展開していきます。聞いていなければ話せない、ということです。「対話力」と言ってもいい。

満の「聞く力」や「対話力」が見事に発揮されたのは、春海(清原)や光司(安田)に対してでした。

中学3年の春海は不登校でしたし、母・綾子(小池)の2番目の夫である光司を嫌っていました。そして光司は春海との接し方に悩んでいるだけでなく、仕事についても迷いの中にいました。

どちらも、岸辺家に居候している間に、満と接することで、徐々に変わっていきます。満との対話を通して、それまで過剰に自分を抑えたり、適当にごまかしたり、どこか無理をしていたことに気づいていった。そして少しずつ、自分を変えていきました。それは綾子も同じだったかもしれません。

物事の本質を問い、それによって相手に考えさせるという意味で、オーバーなことを承知で言えば、満は一種の「哲学者」なのかもしれません。ホームドラマの形を借りた「哲学ドラマ」。やはり新機軸だ。

「岸辺」の向こうへ

そうそう、脚本は金子茂樹さんのオリジナルですが、物語の舞台とした岸辺家の「岸辺」という名字には、山田太一さんが70年代に書いた名作ドラマ『岸辺のアルバム』へのオマージュが込められているのではないか、と勝手に想像しています。

岸辺満(きしべ みつる)という主人公の名前。「岸辺が水で満ちる」ということで、『岸辺のアルバム』のモチーフであり、ドラマの中で実写映像も使われた、1974年の「多摩川水害」を思い浮かべたからです。

『岸辺のアルバム』は、当時のホームドラマの既成概念をひっくり返した、革命的なホームドラマでしたが、『俺の話は長い』もまた、「ホームドラマというフレームを使って、こんなこともできる」という果敢な挑戦でした。

というわけで、最終回。姉一家はリフォームが済んだ家に戻り、満もまたスーツに身を包んで、就職のための面接に出かけていきました。採用されるかどうかは分かりませんが、「向こう岸」へと、橋を渡っていく満の姿が印象に残ります。

もしかしたら満は、就職という形で組織などに属したりせずに、自分で何かをはじめるかもしれない、などと思っていたので、この結末は「なるほど、そうきたか」という感じでした。とはいえ、あの満が、ついに動き出したわけですから、あとは本人に任せようではありませんか。

メディア文化評論家

1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶大助教授などを経て、2020年まで上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。著書『脚本力』(幻冬舎)、『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮社)ほか。毎日新聞、日刊ゲンダイ等で放送時評やコラム、週刊新潮で書評の連載中。文化庁「芸術祭賞」審査委員(22年度)、「芸術選奨」選考審査員(18年度~20年度)。

碓井広義の最近の記事