2つの「ライバル物語」でよみがえる、昭和の音楽界 

音楽が生まれる場所(ペイレスイメージズ/アフロ)

「平成」という元号が役目を終える日も見えてきた昨今。「昭和」はますます遠くなるような気がします。しかし、“音楽の時代”としての昭和の相貌は、逆に鮮明になってきたように思えます。2冊の近刊で描かれた、2つの「ライバル物語」もその一つです。

ポピュラー音楽・・・阿久悠と松本隆

今年は、作詞家の阿久悠さんが亡くなってから、ちょうど10年にあたります。中川右介:著『阿久悠と松本隆』(朝日新書)はタイトル通り、不世出の作詞家2人の軌跡を描いています。

1971年、『スター誕生!』(日本テレビ系)が始まりました。企画から関わっていた阿久さんですが、森昌子さんや桜田淳子さんとは違って、山口百恵さんとの間には距離を置きました。彼女にはレコード会社CBSソニーの敏腕プロデューサー、酒井政利さんがついていたためです。やがて百恵さんは沢田研二さん、ピンク・レディーの2人など、阿久さんが手がける歌手たちにとって、最大のライバルとなっていきます。

一方の松本隆さんは、慶應の学生だった60年代末に、細野晴臣さんたちとバンドを組みました。これが後に、初めて日本語でロックを歌った伝説のバンド「はっぴいえんど」(メンバーは大瀧詠一、 細野晴臣、 松本隆、 鈴木茂)につながっていきます。

74年にアグネス・チャンさんの「ポケットいっぱいの秘密」の作詞で周囲を驚かせますが、松本さんが注目を集めたのは、やはり太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」でしょう。この曲の発売は、阿久さんが詞を書いた、都はるみさんの「北の宿から」と同じ75年です。「♪恋人よ 僕は旅立つ」で始まり4番まである、当時としては異例の長さ。しかも歌詞の中で、男女の視点が頻繁に入れ替わるという革新的な曲でした。

阿久悠さんと松本隆さん、それぞれの“取り組み”をカットバックさせながら、著者はアイドル全盛時代へと向かう音楽界と時代状況を活写していきますが、両者が一瞬交差するのが81年です。3月にピンク・レディーが解散し、阿久さんは「大人の歌」の作り手へと変化していきます。この年、松本さんは松田聖子さんに「白いパラソル」を提供し、寺尾聰さんの「ルビーの指環」でレコード大賞を獲得します。

歌謡曲という枠組みの中で改革を進めた阿久悠さん。異端者であるがゆえに、その枠組みからも自由だった松本隆さん。音楽と社会意識をリンクさせていく本書は、いわば“もう一つの現代史”です。

クラシック音楽・・・山本直純と小澤征爾

今年、没後15年を迎えたのが、作曲家で指揮者の山本直純(なおずみ)さんです。柴田克彦:著『山本直純と小澤征爾』(朝日新書)の序には、音楽番組『オーケストラがやって来た』(1972年~83年、TBS系)を手がけた、テレビマンユニオンの萩元晴彦プロデューサーの名言が記されています。いわく、「直純は音楽を大衆化し、小澤は大衆を音楽化した」。

山本直純さんと小澤征爾さんは、共に「サイトウ・キネン・オーケストラ」に名を残す、齋藤秀雄先生の門下生です。一見対照的な2人ですが、修業時代から深い友情で結ばれ、互いに尊敬し合っていました。著者は本書で、世界のオザワに「本当に直純さんには、かなわない」と言わせた音楽家、直純さんにスポットを当てていきます。

若い頃から指揮者として、また作曲家として活躍していた直純さんですが、顔と名前が広く知られるようになるのは1968年、チョコレートのCMがきっかけでした。森永製菓の「エールチョコレート」ですね。気球に乗り、真っ赤なジャケットで指揮をする姿には、「大きいことは、いいことだ!」というCMソング以上のインパクトがあったのです。

驚くべきは、直純さんが手がけた膨大な仕事量と質の高さです。指揮者の仕事と同時並行で、『男はつらいよ』などの映画音楽、『8時だヨ!全員集合』(1969年~85年、TBS系)をはじめとするテレビ番組のテーマ曲を作り、『オケ来た』の出演も続けました。しかし、その過剰なほど幅広い活動ゆえに、クラシック界ではどこか異端視されていたと著者は言います。当時は確かに、そうだったかもしれません。

直純さんが亡くなったのは、小澤さんとの出会いから約半世紀後、2002年6月のことでした。享年69。

遥か昭和の時代、若き日の直純さんが、小澤さんにこう言ったそうです。「オレはその(クラシック界の)底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ!」と。その後、2人の天才は、まさにこの言葉を実践しながら生きたのでした。