京都の廃仏毀釈の動きの特徴として、他地域にくらべてかなり開始時期が早い。それは王政復古の大号令、祭政一致、神祇官の再興の布告、神仏分離令などが、ここ京都に置かれた新政府にて発布されたから、という地政学上の理由もあっただろう。

 1868(慶応4)年3月28日、仏教由来の神号の廃止や、仏像を神体とすることなどを禁じた神仏分離令が出されるとまず、神仏習合していた祇園社感神院の再編がなされた。祇園社感神院とは、現在の八坂神社のことである。八坂神社は四条通りの東の突き当たりに位置し、毎年7月の祇園祭でもよく知られている観光名所である。

 祇園社感神院は、元は興福寺の末寺であった。のちに天台宗の勃興とともに延暦寺の別院となった。1864(元治元)年に編纂された『花洛名勝図会』を見れば、祇園社感神院境内は、本殿を中心として、多数の寺院建築物が点在しているのが確認できる。典型的な神仏習合型寺社であったことがわかる。

 1868(慶応4)年5月30日、神祇官達によって神号の変更が命じられた。名称は「八坂神社」と改められた。「祇園社」との神社の名称部分だけでも存続できなかったのは、インドにおける釈迦由来の聖地、「祇園精舎」に似ているからという理由である。

 祇園社感神院ではそれまで本地仏が薬師如来である「牛頭(ごず)天王」を祭神として祀っていたが、以降、御法度になった。この薬師如来、観音堂にあった十一面観音立像、夜叉神明王立像は五条の大蓮寺に移され、現在でも同寺に祀られている。また、鳥居に掛けられていた小野道風筆の「感神院」の扁額がおろされた。同時に奉仕していた社僧8人が還俗となった。

 「学問の神様」「天神さん」の愛称で市民から親しまれている北野天満宮も、神仏分離のターゲットにされた神社であった。北野天満宮は太宰府で没した菅原道真を祭神とし、959(天徳3)年に開かれた。

 境内には松梅院、徳勝院、妙蔵院など40以上の寺院が存在し、天台宗の社僧が奉仕した。本殿内陣にはかつて、十一面観音が鎮座しており、社僧が読経にいそしんでいた。拝殿の正面には大鰐口がぶら下がっていた。

北野天満宮からも仏教的要素が排除された
北野天満宮からも仏教的要素が排除された写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 だが、神仏分離令が発布されるや、北野天満宮の名称は「北野神社」と改称された。そして、境内の寺院建築物は悉く壊された。多くの経典が納められていた輪蔵は撤去され、収蔵されていた一切経は近隣の千本釈迦堂に移されたという。

 二層からなる多宝塔は、実に立派なものだったが解体され、その部材はことごとく売却されて四散した。塔内には大日如来立像が収められていて、こちらも散逸の危険にあったが天満宮から約300m東側の浄土宗親縁寺の檀家総代が天満宮の社僧と懇意であったことから、同寺に引き取られて遷座することになった。

 北野天満宮本殿に収められていた本地仏である十一面観音像(一対)は古美術商の手に渡り、木綿職人が買い受けた。その際、一体は溶かされて失われたが、祟りを怖れて、もう一体は東寺の塔頭・観智院に預けられたという。その後は、中京区の因幡薬師堂(平等寺)の観音堂に遷座し、現在に至る。

 北野天満宮には鐘楼もあり、それは豊臣秀頼が寄進したものと伝えられる、同時代を代表する名建築だった。しかし、寺町四条にあった浄土宗大雲院に100両で売却、移設された。

 この大雲院は元は、京都の中心地、四条河原町にあったが、1972(昭和47)年の高島屋京都店の増床に伴って八坂神社の南側に移転している。

 ちなみに大雲院に移転されたこの鐘楼に吊るされた梵鐘は、先の祇園社感神院(八坂神社)にあったものをやはり廃仏毀釈によって下ろされ、移されたものだ。

こうして、北野天満宮にあった仏具、什物はことごとく破壊されるか、売却されるに至ったのである。

 驚くことに廃仏毀釈に遭う前、天満宮本殿には仏舎利が安置されていた。この仏舎利は菅原道真が天台座主から譲り受けたものと伝えられる。道真が常に襟にひっかけて持ち歩いていたとことから、「菅公御襟懸守護の仏舎利」とも呼ばれていた。

 しかし、いくらありがたい釈迦の遺骨といえども、新政府の神仏分離の方針に抗って、祀られ続けるということはあり得なかった。天満宮から仏教色が一掃されつつあった1869(明治2)年11月、京都・北方の山寺、常照皇寺の住職魯山が仏舎利の撤去の噂を聞きつけて下山する。そして北野天満宮の宮司に面会し、7日間にわたって、仏舎利の譲渡を交渉したという。結果的には常照皇寺側が北野天満宮にたいして、250両(現在の価格に換算すると約3250万円)という大金を寄付するたてつけで、仏舎利を手に入れた。

 北野天満宮以外にも石清水八幡宮や伏見稲荷大社などの神社で同様の破壊行為や改称が行われた。また、方広寺では「国家安康」「君臣豊楽」で知られる鐘楼が壊され、しばらく鐘が野ざらしになったほか、深草の即成就院などが打ち壊されて廃寺(のちに東山区で再建)の憂き目に逢っている。

 京都ではそれまでがっちりと神と仏が融合していた宗教施設が多く、廃仏毀釈の事例をいちいち挙げていれば枚挙に遑がないほどである。

 京都における宗教弾圧の中でも、仏教界最大の激震が寺社領上知(地)であった。

 上知とは土地の召し上げのことだ。幕府は1867(慶応3)年、大政奉還で天領(幕府直轄領)の大部分が、続いて1869(明治2)年の版籍奉還によって、藩が所有していた土地(版)と人民(籍)が、新政府に奉還されていた。

 だが、寺社領は版籍奉還によっても手がつけられず、広大な敷地を残したままであった。江戸時代まで寺社は、将軍(幕府)が発行する朱印状によって安堵された朱印地、ならびに、大名(藩)による黒印状によって安堵された黒印地の両方を有していた。朱印地・黒印地では、租税が免除されていた。

 第1次上知令によって、境内を除くすべての領地と除地(免租地)が国に取り上げられた。また、第2次上知令では境内地も対象となり、境内の主たる領域を除いてすべて召し上げられた。

 京都市が編集・発行する『京都の歴史 7』などの資料によれば、著名な寺院領の減少は以下の通りである。

高台寺 9万5047坪 → 1万5515坪

因幡堂 2743坪 → 1787坪

清水寺 15万6463坪 →1万3887坪

東本願寺 4万6614坪 → 1万8600坪

相国寺 7万坪 → 2万7000坪

大徳寺 6万9000坪 → 2万4000坪

鞍馬寺 35万7000坪 → 2万4000坪

鹿苑寺(金閣) 72万坪 → 27万坪

知恩院 6万坪 → 4万4000坪

建仁寺 5万4000坪 → 2万4000坪

 これによると、上知前と後では、寺社領が数分の1にまで減少していることがわかる。清水寺に至っては10分の1以下にまで境内地を減らした。2度にわたる上知令によって、市内の寺院は経済的にも計り知れない打撃を受けたのである。

 神仏分離政策、そして上知令により、膨大な寺社領が召し上げられたことで、京都はその景観を一変させていく。

 その一例が、新京極通りの誕生である。

 新京極通りは、京都における「原宿・竹下通り」とも言われるファッションストリートだ。三条通りから四条通りまでの約500mを貫くアーケード街になっていて、京都在住の若者だけでなく、修学旅行の学生や、最近では多くの海外旅行者がこの道を闊歩する。京都では、もっとも賑々しい場所のひとつである。

 しかし、江戸時代まで、この通りは存在していなかった。そこには多数の寺院が南北に連なるように立っていたのだ。つまり、浄土宗西山深草派総本山である誓願寺を北限(三条側)にして、その南方(四条側)に向けて、誠心院、西光寺、永福寺(蛸薬師)、安養寺、善長寺、了蓮寺、歓喜光寺(錦天満宮)、金蓮寺が連続して建っていた。

 これらの寺院は、豊臣秀吉の京都大改造の一貫で、京都の東の端、東京極大路沿いに集められた約80カ寺のうちの一角を占めるもの。秀吉は外敵から京都の街を守る目的で、寺院を兵站にしたのだ。

 ところが明治に入り、先述の京都近代化政策と、にわかに布告された上知令とが重なり合い、寺院が整理されることになった。

京都の新京極通りは寺院境内を取り上げて造られた
京都の新京極通りは寺院境内を取り上げて造られた写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 そのうち誓願寺はこの地で、七堂伽藍を備える巨大な寺院であったという。誓願寺は飛鳥時代、天智天皇の誓願によって奈良で創建。8世紀の京都遷都とともに、一条小川町に移転した。中世は女人往生の寺として名を馳せ、清少納言や和泉式部がここで往生したと伝えられている。和泉式部の庵は、現在、隣接する真言宗泉涌寺派誠心院になっている。

 誓願寺はその後、秀吉の政策によって現在の地に移された。この時の境内地は現在の三条通と六角通までに及んだという。

 しかし、維新時、誓願寺は時代に翻弄されることになる。1864(元治元)年の禁門の変で、伽藍と本尊を焼失。その復興過程で神仏分離令が出された。

 現在、誓願寺を訪れると、その本堂に座高2.4mもの大きな阿弥陀如来像が鎮座し、多くの参拝客を驚かせる。大きな光背には千体仏がぎっしりと刻まれ、実に神々しい姿を見せている。

 この大仏は、もとは石清水八幡宮(八幡市)の八幡神の本地仏として、別当寺の安楽寺に安置されていたものだ。ところが、折しも廃仏政策の嵐が京都に吹き荒れ、当時、焼失して本尊不在であった誓願寺に移されることになったのだ。1869(明治2)年のことであった。

 誓願寺が大仏を本尊に迎え、復興を遂げようとしていた矢先に、上知令が布告される。6500坪あった境内地のうち4800坪が上知された。また上知されたことで、誓願寺は経営難に陥り、塔頭寺院18院のうち15院が廃寺になってしまった。

 誓願寺から南へと連なる他の寺院も同様の有様であったという。

 第1次上知令の1年後の1872(明治5)年冬。上知された土地は民間の手に渡って道路敷設工事がなされた。それが現在の新京極通なのである。

 誓願寺の塔頭竹林院の跡地はその後、松竹の手に渡り、明治座(のちの松竹座)が建てられた。新京極は戦後、高度成長期からバブル期にかけて、劇場・映画館がずらりと軒を並べる日本を代表する興行街として繁栄していく。

 新京極通りのような寺院整理に伴う再開発の例は、ほかにも祇園町に見られる。建仁寺の北側寺領は上知によって京都府の所有になったが、お茶屋組合が土地を譲り受け、花見小路などに整備されたのである。花見小路も今では祇園巡りの観光名所になっている。

 いずれにせよ、こうした京都屈指の繁華街や観光名所が、廃仏毀釈によって誕生していた史実は、もはや京都市民の多くが知る由もない。

 併せて、拙著「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(文春新書)をご参照いただきたい。