奈良と並ぶ宗教都市、京都。この京都では神仏分離政策によって、多くの仏教行事が一時期、中止に追い込まれる事態となった。例えば「五山の送り火」や地蔵盆、盆踊りなども軒並み「仏教的だ」ということで禁止になっていた。

 同時期、東京に都が移ったことで京都の街は著しく衰退。京都に活力を取り戻すべく近代化政策が推し進められていくが、そこにも多数の寺院の犠牲があった。例えば京都の中心に架かる四条大橋は京都の近代化における目玉事業だったが、そこは仏像や仏具が溶かされた鉄筋でできていた。明治初期、京都は廃仏毀釈によって多くの仏教文化が失われた。時間を150年前に戻してみていきたい。

 1871(明治4)年10月、京都府は次のような府令を出す。ここでは原文は省略し、訳例を記す。

「京都市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などがいかに無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するように。仮に霊験あらたかな仏像であるならば、路傍に乱暴に置かずにきちんと祀るのがよかろう。但し、地蔵堂などは売却し小学校に寄付せよ」

 実際、この府令によって京都市内の路傍の石像がかなり撤去された。当時二条城に火の見櫓を建設する際の台座は、地蔵が集めて造られ、また、小学校の柱石に地蔵が使われるケースもあったという。

 続けて、京都府は1873(明治6)年7月8日に以下のような府令を出している。

「夏のむし暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠もない迷信だから今後は一切、禁止にする」

 徹底した仏事への嫌悪を感じさせる府令である。

 当時は神仏分離政策の渦中にあった。この府令によって五山の送り火、地蔵盆、盆踊りなどのお盆の諸行事が禁止に追い込まれたのだ。

 それどころか、正月の門松、施餓鬼、3月のひな祭り、5月の端午の節句、7月の七夕なども「仏教的な民間信仰」とのことでご法度になったという。送り火の禁止措置は1882(明治15)年まで続く。

京都五山送り火
京都五山送り火写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 しかし、京都の夏の一大イベント、送り火を禁止にするとはよほどのことである。どういう背景があったのであろうか。

 たしかに送り火の場合、神仏混淆の要素が見られる。例えば、右京区嵯峨鳥居本の曼荼羅山で灯される「鳥居型」。送り火は仏教行事のはずなのに、神社を象徴する鳥居が灯されるのである。明らかにこれは神仏が習合している。

 鳥居型の送り火の由来については諸説ある。地元鳥居本は京都市内最高峰の愛宕山(924m)へとつながる参道にあたる。曼荼羅山の麓には、愛宕神社へと続く「一の鳥居」があって、その一の鳥居を模したのではないかという説が有力である。

 実際、愛宕神社自体が、江戸時代までは完全に神仏習合した宗教施設であった。

 京都の愛宕神社は全国に900を数える愛宕神社の総本宮である。創設は大宝年間(701〜704年)で、修験道をはじめた役行者が開いたと伝えられている。平安期になれば、和気清麻呂が境内地に白雲寺を建立する。そして、神仏総じて「愛宕大権現」の名称で、神仏習合の修験道場になっていく。

 江戸末期までには境内に勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院などの坊が立ち並ぶ一大聖地となり、多くの社僧が住持した。東の比叡山延暦寺にたいして、西の愛宕山愛宕大権現といった位置付けであっただろう。

 だが、神仏分離令が発布されるや、白雲寺をはじめとする神宮寺は軒並み廃寺処分になり、愛宕大権現は「愛宕神社」と名称を変えた。同時に、送り火も中止になった。

 愛宕大権現には本地仏の勝軍地蔵が鎮座していた。だが、西京区大原野の天台宗金蔵寺に移され、同寺境内に愛宕大権現堂が新たに建立されて安置された。こうして愛宕山からは、一切の仏教色が排されたのだ。

 明治維新時、京都では仏教にたいする弾圧は、まるで真綿で首を絞めるがごとくじわじわと、そして、断続的に断行されていった。

京都・愛宕神社の参道
京都・愛宕神社の参道写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 四条大橋に話を戻そう。

 八坂神社の社家記録によれば、四条大橋は1142(永治2)年、市民からの勧進(寄付)によって架けられた。以来、900年近く、四条大橋は京都の東西を結ぶ交通の要衝として機能してきた。数々の歴史を刻んできたこの四条大橋は、江戸時代までは木造の橋であった。

 明治に入って、文明開化の名のもとに、京都最初の鉄橋として架け直される計画が立てられる。その際の材料にされたのが、折しも廃仏毀釈によって壊された寺院の仏具類だった。京都において、仏閣は伝統文化そのものであり、観光の源泉とも言える存在であるはず。しかし、当時は新しい街づくりばかりが優先され、仏教寺院が犠牲になったのである。

 四条大橋の架け替え事業の総工費は1万6830円。1873(明治6)年に起工、翌年の3月には開通するというスピード工事だった。四条大橋の整備は京都の近代化政策の柱の一つに位置付けられていた。

 四条大橋架橋工事のために仏具類が供出された事例としては、伏見区にある日蓮宗宝塔寺が犠牲になったとの記録がある。供出されたのは大鰐口だった。大鰐口とは仏前参拝の折に、紐を引いて打ち鳴らす大きな仏具のこと。神社の場合は鈴であるが、寺院では大鰐口という仏具を使う。

 宝塔寺の大鰐口は慶長年間に寄進されたもので16貫800目(約63kg)もあったという。この宝塔寺の大鰐口をはじめ、市内の寺院からは様々な金属製の什器類が供出され、溶かされて橋の材料にされていった。

 いっぽうで、四条大橋の南に架けられていた五条大橋もまた、廃仏毀釈の影響を多分に受けた。

 五条大橋はもとは、200m北側の松原橋にあったが、秀吉の時代に現在の位置に架け直された。洛中から清水寺への参詣や、伏見桃山城と禁裏とを結ぶ京の要路として機能した。

いったん外されてしまった五条大橋の擬宝珠
いったん外されてしまった五条大橋の擬宝珠写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 現在、五条大橋を眺めると高欄には立派な擬宝珠が並び、荘厳な景観をつくりだしている。擬宝珠とは、橋や寺院の欄干などの飾りとして付けられている金属装飾である。見た目は葱坊主のようであることから、「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。

 五条大橋の擬宝珠に刻まれた最も古い年号を見ると、1645(正保2)年の鋳造のものがある。擬宝珠はもとは16基付けられた。しかし、現在欄干に取り付けられているのは14基である。

 この擬宝珠もまた、1868(明治元)年に、「仏教的」ということで、ことごとく撤去され、売却されてしまった。記録によれば、ある好事家は、手に入れた擬宝珠を自庭に置いて鑑賞したという。あろうことか五条大橋は、当局によって洋風のペンキで塗り替えられ、京都の風情を一変させた。

 さすがにこの蛮行を京都人は黙っておらず、当局にたいして非難の声が高まったという。その結果、次の架け替えの時に元の姿に戻すことを前提に、擬宝珠の買い戻しがなされた。そして1878(明治11)年に旧観に戻したという。だが、2基が不明となってしまった。

 インフラ系では橋のほか、石塔婆などが道路の敷設に使われたり、市内に置かれていた石仏が踏み石にされたりした事例は枚挙に遑がない。(京都編はさらに続く)

 併せて、拙著「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(文春新書)をご参照いただきたい。