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アフターコロナの集客は神社の参道に学べーてんしば(大阪)とオガール(岩手)を支える道と奥のしつらえ

上山信一慶應大学名誉教授、経営コンサルタント、大学院至善館特命教授
著者撮影:オガール紫波の風景

 岩手県紫波町の「オガール紫波」に行ってきた。紫波町は人口約3万3千人の盛岡市の郊外タウンだ。「オガール紫波」は、盛岡駅から電車で約20分、紫波中央駅の駅前にひろがる。面積は約10ヘクタールで図書館、役場、フットサル場、アリーナ、ホテル、産直市場、飲食店などからなる複合公共エリアだ。おしゃれなデザインと先端的な公民連携手法で全国にその名をとどろかせている。ここの開発手法の素晴らしさはすでに語りつくされているので今回はさておく。今回、私が注目したいのは芝生と道の使い方だ。オガール紫波は駅を背にしてまっすぐ歩いたところに出現する。細長い芝生の土地の両脇に500mくらいに渡って店や図書館、ホテル、マルシェなどが次々に現れ、奥に向かって人を誘うように作られている。

  

 歩きながら何かに似ていると気がついた。そう、大阪の「てんしば」(天王寺公園のエントランス)である。あそこも駅を後ろに歩くと芝生の細長い公園が出現し、約400mに渡って両側に飲食やフットサル場などが次々と現れる。芝生に誘われ、奥に向かっててくてく歩くと動物園と美術館に到着する。てんしばも市民の憩いの場として賑わい、公民連携の先端事例として全国の自治体関係者の視察のメッカとなっている。オガールとてんしばは似ている。土地が細長くて芝生がある点だけではない。どちらも立地を有効活用し、入り口から奥へと誘うように緑の絨毯が続き、楽しいサービス施設が次々に現れる。前者は公共施設群が配置されることから、後者は都市公園法の規制があることで制約が課されている。また前者は町役場が塩漬けになった町有地の活用に悩んだ末に、後者は市役所がブルーテントに占拠され荒れた風景の市営公園の管理に悩んだ末に思い切って企業に委ねて成功した。結果として民間企業の感性と自由度が故に随所に創意工夫が張り巡らされ、また全体のデザインの統一性と美観にこだわっている。東西の公民連携の聖地は実に似ている。

 

 〇神社の参道という原体験

 話は変わるが最近、商店街が若者に人気だ。それも武蔵小山(東京、800m)や天神橋筋(大阪、2600m)、大須(名古屋、1700m)など奥行きがあって長くてわいざつな感じがいいらしい。これらも要は、奥を目ざして歩いていく、その途中をじっくり楽しむ趣向だ。途中には飲食あり、ファッションあり、スーパーありで秩序がない。だが、それが楽しいのだ。そういう意味ではオガール紫波やてんしばも公共空間の中に商店街の道行きの要素を取り入れたから楽しいのだろう。

 日本の商店街は神社の境内や参道で開かれる縁日や市場に起源をもつ。鳥居をくぐって歩いていくと両脇にたこ焼きの屋台や綿菓子、あるいは骨董屋まで来ていてなかなか本殿に行きつかない。でもそれが楽しい。商店街が楽しいのはあの感覚と同じなのだ。

 話を都市再生や地域再生に広げて考えてみる、これからは、まさに商店街のようにそぞろ歩きの道行きが楽しい空間づくりが肝になる気がする。都市再生というと今までは決まって再開発ビルや高層ビルを建てることだった。密集住宅街は壊して綺麗なマンションにする。すると床面積がたくさんとれて採算がとれた。しかしこれからは縦に空に向かって伸ばすのではなく、人がそぞろ歩きする場所を決め、そこに商店やイベントを集めていく。車を前提にしない、歩いて回れる街を作っていくことこそ地域活性化の王道となるだろう。

 コロナ禍を経て高層ビルの必要性には疑問符が付いた。もはやショッピングモールや商業ビルだけでもない。住宅地でリモートワークをする。そぞろ歩きで食事や買い物を楽しむ。人と出会う。そういう緩い公共空間にこそ人は集まり、時間を過ごす。先述のような各地の老舗商店街やそれに似た機能を持つてんしば、オガール紫波型のプロジェクトがこれからの地域再生の核プロジェクトになるだろう。

〇槇文彦氏の洞察

 そう思って書物を紐解けば、建築家の槇文彦さんの「見え隠れする都市」という名著の中にヒントがあった。すなわち、西洋は「中心」、日本は「奥」という空間観が元にある。西洋の街では「広場」を中心に整然とした町並みを作る。これに対し日本は、神社や鎮守の森など「奥」にある(はずの)見えざるものに深淵さを感じ、そこにいく「道」に沿ったまちづくりをしてきた。おかげで日本の町並みは、一見すると雑多な、しかし、入り込んだ重層的な町並みとなっているのだと。

◯奥の例:四国の金刀比羅宮の参道

 典型的な日本の「奥」と「道」の例は四国の金刀比羅宮の参道だろう。この道は、樹木、鳥居、途中の多くの寺社に至る分かれ道が屈折し、僅かな高低差がある。これらによって寺社にたどりつくプロセスに儀式性が生まれ、実際より奥に寺社があるように感じさせる(槇文彦他「見えがくれする都市」)。参道の途中にはのれんや旗、土産物の飾られた門前町の家並み、灯籠、松並木、石ダタミ、石垣、渡り廊下、ピロティ、階段等が現れ、道と建築と自然が共存、融合している。ここに限らず、日本の道は歩く交通機能だけでなく、生活空間、交流の場。そして家々の個々の生活空間を公共空間につなぐ役割ももっている。かくして日本では公共施設、宗教施設は、中心部に集中して立地せず道に沿って、散在している(黒川紀章「都市デザイン」)。

◯旅館の廊下も典型的な日本の「奥」

 道と奥による空間演出は建物の中にもみられる。典型は神社の参道と奥の院だが、ほかにも城内の将軍の子女や正室がいた大奥などがある。「奥」という言葉は、見えないところに、抽象的な奥深さ、事が深淵で測り難いことなどを表してきた。旅館の廊下にも道と奥の演出がある。古い旅館では内部に入ると屈折する廊下で迷路になりそうなことがある。途中の度々の屈折によって眼前の光景が変わり、昇り下りで歩行のリズムが変わる。そして奥を目指して歩いていく中で実際以上に遠くに来た感覚を味わう。(槇文彦他「見えがくれする都市」)。このように日本では町並みも家の作りも「道」と「奥」から構成され、入り組んだ重層的な構成を楽しむ趣向となっている。

◯「西洋の中心」―ギリシアの広場アゴラ

 一方で西洋の都市はどうか。西洋都市では「中心」部分に、教会、市役所など重要なものが建物群を形成し、さらに「広場」が立地する。そして広場は単に広場としてだけでなく、都市の公共空間としても機能する。ギリシアの都市では、中央部に求心的な公共空間としてアゴラという名の広場をもっていた。アゴラでは市が開かれ、政治が議論され、占い師や売春婦もいた。この広場こそが、市民の生活を都市に結びつけ、都市意識へと高める媒体空間であった。(黒川紀章「都市デザイン」より)

◯これからの日本のまちづくりでは「日本の奥」を取り入れることが重要

 このように日本と西洋のまちづくりでは基本原理が異なる。日本では「広場」よりも「道」が、そして「中心」よりも「奥」が重視されてきた。とはいえ、近代化で日本は西洋技術を取り入れた。同時に西洋の文化も取り入れた。その典型がオガール紫波やてんしばに見られる広場の機能をもった芝生の緑地帯が延々と奥に続く風景ではないか。そこは、道は奥に続く細い道(奥の細道)ではなく幅広で子供が裸足で駆け巡り、時にはバンドが演奏をする広場でもある。オガール紫波では奥に行く道に沿ってプラザという名前の建物があり、中には紫波町情報交流館というレンタルスペースなどが入っている。まさに西洋と日本のハイブリッドではないか。

◯西洋を見本とする街づくりで失敗の歴史

 歴史を紐解くと明治の東京の都市づくりではこうした「道と奥」に対する洞察やリスペクトはあまり見られない。例えば、1886年の日比谷官庁集中計画では1853~70年のオースマンのパリ改造をお手本にしたが失敗した。オースマンは新しい街路や建物のみならず、上水道供給、大規模公園を含む再開発を行った。それにならって日本政府も皇居を中心とする東西約3.3km、南北約2.3kmの範囲に、国会議事堂、博覧会場などを集中させ、官庁建築が整備された姿を外国に示して治外法権を撤廃しようと考えた。しかし財政難や都心部の姿を変えることへの反対から計画は大幅に縮小され、実現したのは、東京裁判所と司法省の2つの建物だけだった(日端康雄「都市計画の世界史」)。

 戦後にも東京では1958年に大ロンドン計画を手本とする「グリーンベルト構想」ができた。この計画では、同心円状のゾーン区分と求心構造で都心の中心部の開発圧力を減らし首都と衛星都市の間の市街地の連なりを防止しようと考えた。そのために農地、山林、その他の緑地を残したグリーンベルトを指定した。しかし緑地帯として構想された近郊地帯は地元の市町村や権利者の反対にあって指定に至らなかった。 

〇道と奥の現代的解釈が必要

 このように日本、特に東京の西洋式の街づくりはうまくいかなかった。それでもなんとかなったのは都市計画のおかげではなく、関東大震災と空襲が古い建物を強制除去してしまったからと言われる。ともかく災害後は道路は広く整備され、区画整理が中心部で進んだ。

 

 さらに高度経済成長期には私鉄が沿線開発を進めた。また都心では地価の上昇を背景に六本木ヒルズや赤坂ミッドタウンなどの再開発手法が成果を上げてきた。だが今後はどうか。アフターコロナの意識の変化やリモートワークの普及で容積率は緩和されても高層ビルの需要はいままでのようには出てこない可能性がある。地方都市ではますますそうだろう。西洋の真似、東京の模倣ではますます立ち行かなくなる。

 これからは地元の潜在能力を生かして集客の需要を創出する街づくりを考える。その際に思い起こすべきはやはり道と奥なのではないか。平たくいうと商店街の再構築、あるいはオガール紫波やてんしばのような新規のエリア整備である。そして道行きの奥には美術館や神社など何かシンボリックなものを鎮座させる。映画館や噴水公園などでもいい。参道を整備し、両脇にはいろいろ雑多なものを誘致して楽しい空間にする。いるだけで楽しければイオンモールにも対抗できる。こういう楽しいストリートの発掘と奥の設計、そして沿道の付加価値付けがこれからの街づくりと地域再生には必要になるのではないか。

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この記事は慶應大学SFCの上山信一研究会ゼミ生の丸山知春が調査・執筆(編集監修は上山信一教授)した。上山ゼミでは「都市の未来」を主題に「都市文明と人類」「東京の都市計画」「感染症と都市」「公共交通と地域・都市」「都市の孤独問題」「これからの都市開発」などを調査している。

慶應大学名誉教授、経営コンサルタント、大学院至善館特命教授

専門は戦略と改革。国交省(旧運輸省)、マッキンゼー(パートナー)を経て米ジョージタウン大学研究教授、慶應大学総合政策学部教授を歴任。アドバンテッジ・パートナーズ顧問のほかスターフライヤー、平和堂等の大手企業の社外取締役・監査役・顧問を兼務。東京都・大阪府市・愛知県の3都府県顧問を歴任。著書に『改革力』『大阪維新』等。京大法、米プリンストン大学院修士卒。これまでに世界119か国を旅した。オンラインサロン「街の未来、日本の未来」主宰 https://lounge.dmm.com/detail/1745/。1957年大阪市生まれ。

改革プロの発想&仕事術(企業戦略、社会課題、まちづくり)

税込214円/月初月無料投稿頻度:月1回程度(不定期)

筆者は経営コンサルタント。35年間で100超の企業・政府機関の改革を手掛けた。マッキンゼー時代は大企業の再生・成長戦略・M&A、最近は橋下徹氏や小池百合子氏らのブレーン(大阪府市、東京都、愛知県、新潟市等の特別顧問等)を務めたほか、お寺やNPOの改革を支援(ボランティア)。記事では読者が直面しがちな組織や地域の身近な課題を例に、目の前の現実を変える秘訣や“改革のシェルパ”の日常の仕事と勉強のコツを紹介する。

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