「日本国紀」を巡る幻冬舎社長と作家との対立から見えた「出版村の終わりの始まり」
幻冬舎のベストセラー『日本国紀』(百田尚樹著)をツイッターで批判した作家の新刊を取りやめたことで、同社の見城徹社長が投稿したツイッターが物議を醸している。すでにいくつもの報道が出ているので、事の詳細は各報道やネット論考に譲るとして、その背景にある出版の慣行や出版構造上の問題点について取り上げることにする。
今回の炎上は「典型例」
今回の事の発端は、作家の津原泰水さんが、幻冬舎のベストセラー『日本国紀』(百田尚樹著)をツイッターで批判したところ、同社から刊行予定だった文庫本の出版が中止になったと訴えたことにある。津原さんは、幻冬舎との一件を13日深夜にツイッターで告発した。
ネットで騒ぎが大きくなり始めたところで、毎日新聞が両者の主張の食い違いをまとめて、いち早くネット報道し、一般にも知れ渡った。
津原さんの指摘した『日本国紀』の問題は、毎日新聞が昨年12月に記事として取り上げていたことも、反射神経のよい記事につながったようだ。
この、言わば「衆人監視」状態となった16日に、幻冬舎、見城社長の発言が飛び出したことで、たやすく「炎上」したのだ。同氏は自社の対応を説明するために、作家の1作目や今回のオリジナル本の実売部数をツイッター投稿し、「実売部数をさらした」として物議を醸すことになった。
同社から刊行している作家らからも批判を浴びたことで、17日になって見城社長は、問題のツイートを削除。「編集担当者がどれだけの情熱で会社を説得し、出版に漕ぎ着けているかということをわかっていただきたく実売部数をツイートしましたが、本来書くべきことではなかったと反省しています」と釈明している。
「炎上」は、ネット内だけでなく、新聞やテレビなどの「マスメディア」と「ネットニュース」、個人ブログなどの「SNS」が組み合わさった「共鳴装置」が働くことで引き起こされる。また、当事者より周辺が騒ぎ立て、問題の本質がズレて、拡散していく傾向にある。
今回も、その典型的な例と言ってよい。
なお本来、投稿者が削除した内容(具体的な部数など)を再掲することは、慎重な扱いが求められる。業界の慣例や不況の厳しい経営状況を説明するために、最低限の記述となることをお断りしておく。
問題の背景にある「出版業界の商慣習」
作家と出版社間のトラブルがなぜ、こうも問題化したのか。さらに「実売部数」を公にしたことが、作家から強い反発を招いた理由は何か。そもそも“実売さらし”が「出版界のご法度」と書いた報道もあるが、それがなぜ、「業界の慣例を破った」ことになるのか。
“実売さらし”が“営業妨害”としたコメントも読んだが、一般常識であれば、商品の販売数は「正確」に公表することが求められている。メディア業界が日本ABC協会を設立して、新聞と雑誌の部数公査するのも広告主に対する責任があるからである。しかし、本の発行部数は、広告に使われることはあっても、ABC公査の対象外である。「○○万部」という文字が、本の広告や帯に踊るが、どこまで正しいのか、疑問に思ったことはないだろうか。
ここには長年にわたる文芸作家と出版社の商慣習も背景にあり、事態がわかりにくくなっている。まえおきが長くなったが、出版状況を理解するために今回の出来事のポイントとして、次の4点を取り上げたい。
1.言論表現の自由、出版の自由と出版をしないという判断
2.売れる本が売れない本の出版を支えている二重構造
3.出版契約と印税の支払い方法
4.編集者の立場と作家エージェントの必要性
言論表現の自由、出版の自由と出版をしないという判断
まず、最初の点についてだが、言うまでもなく、最終的に出版するか、しないかの判断は出版社にあり、内容面とともにビジネスの判断も尊重される。
依頼した原稿が編集者や出版社の意に沿わないことは、どの出版社、どの編集者も経験している。筆者も編集者時代に、出来上がってきた原稿が企画意図とまったく別な代物で、売れる確信もないことから、断ったことは一度や二度ではない。若い頃は対応のまずさも手伝って、著者のプライドを傷つけたのか、罵声を浴びせられて電話を切られたこともある。
ただし、表だって喧嘩することでは決してない。出版社の意に沿わなければ、礼を尽くして(原稿料の一部を支払うとか、他者の編集者に内々で声をかけることもある)原稿をそっとお返しすればよいことである。その結果、他社から出版されることはよくある。
一方、著者とのつきあいで、惰性的に判断して出版し、失敗した経験もある。景気がよい時代はよかったが、出版不況と言われる中で、企画や部数決定はどの社も厳しくなっている。さらに書けば、単にビジネスとしてではなく、社会的責任からも「出してはいけない本」を出さないと決めることが重要なのだ。出版社は、「出したい本を出す」ことより、「出してはいけない本を出さない」と決断する方が時に難しいし、勇気がいる。
内容に不満でも売れる作家だから出版することになれば、編集者として忸怩たる思いを味わうことになる。逆に作家と二人三脚でやってきて、企画が通らない悔しさも編集者は味わうことになる。
売れる本が売れない本の出版を支えている二重構造
次に、売れる本が出版を支えている構造についてである。「出版は水物」といわれ、数打つなかで、思いもかけないベストセラーが出ることがある。逆に言えば、ヒット作が出ることで、売れない本を支えているのだ。
今回の一件で言えば、日本人が好きな歴史書の学問的危うさもある。歴史学者である呉座勇一さんの『応仁の乱』(中公新書)がベストセラーになったのは記憶に新しいが、書店の歴史書コーナーに並ぶ本の多くは、学者よりも作家の作品である。司馬遼太郎の歴史小説から井沢元彦「逆説の日本史シリーズ」のような通史と新説をブレンドした歴史評論まで、歴史書は部数が稼げる分野である。出版に当たっては史実が曖昧なこともあって、内容の正しさはともかく、意外性や面白さが優先される点がある。
百田尚樹さんの『日本国紀』は2018年11月に出版されベストセラーとなっている。この本も歴史エンターテインメントの系列に属する本といってよい。本が売れない中、売れ筋と人気作家を組み合わせた本は、堅実な企画である。
日本人が国際社会の中で埋没して自信を失っていく中で、「日本は素晴らしい」といった本が受け入れられていることも下地になっているだろう。皮肉な現象だが、歴史エンターテインメントブームが専門家の研究書の販売を支えているのだ。
出版契約と印税の支払い方法
3点目が、出版契約と印税の支払い方法についてである。出版界の印税支払は、主に文芸出版社の「印刷(発行部数)払い」と、人文社会科学・専門書出版社の「実売部数払い」の二つがある。本が売れない中で、前者も後者の契約に移行せざるを得ない時期となっている。
「実売部数払い」であれば、当然のことながら、印税支払いの根拠として、著者に正確な販売部数を伝えないと契約違反となる。一方、文芸出版の世界では、作家は、自分の本が何部印刷したかは伝えられていても、何部売れたかは教えられていないことが多い。
さらに、実態は、作家のプライドを傷つけないため、1万部の印税を払うが、実際には5000部しか印刷せず、売上げは、その三分の一といったこともある。今回、見城社長は、その数字を著者に伝える前に公表したのだから、文芸作家たちの反発につながったのも当然である。
幻冬舎文庫として印刷した部数が5000部と聞いて、正直、そんなに少ないのか、という印象を持った。全国に実店舗を持つ書店は、図書カード取扱店数(8,333店)とほぼ同じである。よく、1万数千店とした数字があるがこれは実店舗を持たない書店が入っている。つまり、5000部では、全国の書店に配本できないことになる。1万部以上印刷して配本しなければ、平台にも置いてもらえないのだ。
また、文庫本は、価格を安くするために初版を大部数印刷しなくてはならない。時にはオリジナルの文芸単行本より、文庫本の初版部数が多い例もあるだろう。文庫本の出版は、思いの外、ハードルが高いのだ。
取引の常識が周回遅れで出版界に
かつて、文芸作家に出版契約書はない、と言われた。それに変化が訪れたのは、単行本の文庫化からである。最初に単行本を出しても、他の出版社に文庫を持っていかれないように、契約書を交わすことが必要となった。文庫本を持たない出版社は、他の出版社から文庫が出ると、数%(2%程度と言われる)の売上げ印税をもらう慣例もある。
最近では、その数%を作家印税から引いて、作家の印税を8%にする例もあると聞く。今回のように、親本の出版社ではなく、他社の文庫に入ることも、通例的と言ってよい。
さらに電子書籍化で、契約書が"絶必"となった。出版社は、印刷出版の契約を著者と交わしていても、電子出版は著作権法の根拠が別なことから、改めて契約を結び直す必要もあった。また、出版社は外資系オンライン書店とガチガチの契約をすることで、出版に当たっての責任を負い、著者との契約を求められることになる。いずれも商取引からいって当たり前の話が、周回遅れて出版界に訪れたのだ。
こうして、文芸作家の間でも出版契約書が常識になったのだが、彼らも発行部数払いは死守したいのである。売上高払いになったら、収入が減ることは明かで、まして、電子書籍は注文がなければ印税0円である。アドバンス(印税前払い)のような支払契約にしなければ、著述業は死滅するとさえ言われている。ごく一部のベストセラー作家を除いて、多かれ少なかれ作家は、出版社に生殺与奪の権を握られているのだ。
今回の一件は、どんぶり勘定的にも似た「印刷(発行部数)払い」が困難になったことも背景にある。
編集者の立場と作家エージェントの必要性
さて、最後に編集者の立場がある。以前は、会社と作家がもめたら、編集者は作家の立場に立つ、と言われてきた。今回の一件では、結果的に担当編集者も会社の意向を伝えることになった。見城社長はオーナーであり社内での決定権を持っていることは十分にうかがえる。
出版社に所属する編集者では、以前のように作家の創作活動を優先して自由に振る舞うことが難しい時代となったのだ。また、出版社が作家の生活を支えることで、自社に縛ることも困難である。ネットを使って、セルフプロディースの巧みな作家も活躍するようになったが、作品の売り込みに時間を割きたいとは思わない作家のほうが、まだ一般的だろう。
作家が創作活動に専念する一方で、出版機会を増やし、作品の流動性を高めていくことが求められている。そのためには、欧米のように作家エージェントが、著者と契約し、作品を売り込んでいく形に変わっていくだろう。
出版村の終わりの始まり
今回の一件は、出版界にまかり通ってきた「前近代的な出版商慣習」が持たなくなり、崩壊するプロセスで、表面化した例といえる。
出版商慣習は、小さな入江に面した「出版村」の村人たちが守ってきた「掟」のようなものだ。村人は、著者と出版社と書店で、時折訪れる読書家と取引していればよかった。自分たちだけで村の掟を決めても、何の不都合も問題もなかった。
そこに、ある日、ネットという黒船がはるか沖合から現れ、取引を迫ってきた。村のルールは通用せず、変更も必要だろう。新しいビジネスのアイディアを持ち込む人や、村から外の世界に飛び出す人も現れてくる。
村人は入れ替わり、より広い世界とつながって、新たな書き手、読み手が育っていく。そんなとき、長老がうっかり、村の掟を口走ると、若い人から反発を受けることになる。
終わりは悲観することではない。始まりなのだ。