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コロナ禍で行われた新しい取り組み。高校野球の目的を問う「夏の甲子園大会オンライン」とは?

上原伸一ノンフィクションライター
大会を視聴する優勝した豊野高の女子マネージャー(写真提供 大会実行委員会) 

バットやグラブを持たない大会

 全国各地で高校野球の秋の大会が行われている。新型コロナウィルスの影響で、無観客にするなど、例年通りとはいかないが、順調に試合が実施できているようだ。

 今夏は甲子園大会が中止になり、各都道府県の大会は代替大会・独自大会という形になった。球児にプレーする場を与えようと尽力した各地の高野連の取り組みは様々で、選手の体力を考慮し、7イニング制にしたところもあれば、1974年に「東」と「西」の2代表になった東京では、それぞれの優勝校による「東西決戦」が実施された。また3年生に配慮し、多くのところで、試合ごとにメンバーの入れ替えが可能だった。筆者は東京大会を取材したが、スタンドにいたのはベンチ外の部員とその保護者だけで、見慣れた応援風景はなかったものの、グラウンドの選手たちの1球にかける思いは、いつもの夏となんら変わりがなかった。

 こうした中、8月9日に「夏の甲子園大会オンライン」という、新しい形の大会が開催された。参加したのは、弘前聖愛学院高(青森)、富士宮東高(静岡)、豊野高(愛知)、国際学院高(埼玉)、蒼空希望学園(高校生主体のクラブチーム)、大島海洋国際高(東京)、札幌日大高(北海道)、狭山清陵高(埼玉)の8チーム。ただし、野球の試合をしたわけではない。バットやグラブは持たず、高校野球で培ったことをオンラインで発表し合った。

高校野球の「目的」に目を向ける

 「夏の甲子園大会オンライン」を立ち上げたのは、実行委員長の川島敏男氏だ。川島氏は日大二高2年夏(1978年)に三塁ベースコーチとして甲子園に出場。明治大でもプレーし、3年時からは母校・日大二高のコーチ、助監督に。1982年夏の甲子園出場に貢献した。その後しばらくは野球の現場から離れていたが、2009年より求められて高校野球のアドバイザーになり、現在は中学や学童のチームにも携わっている。

 大会を立ち上げるきっかけとなったのは、センバツに続き、夏の甲子園も中止になると報道があった時の世間の反応だった。その喪失感ばかりに目が向けられていることに違和感を覚えたという。

 「確かに甲子園は高校球児にとって、とてつもなく大きな目標です。ですが、『目標』の奥にある高校野球の『目的』、“目的としての甲子園”はなくなっていない、と思ったのです」

 目的としての甲子園-。甲子園の土を踏んだ川島氏は「長い目で見れば、高校野球で大切なのは、甲子園に出たことより、むしろ甲子園を目指す中で、何を得たか」と考えている。言い換えるなら、目標を成就することよりも、その過程に高校野球の意味があると。やり遂げる力、創造する力、共感する力…こうした社会に出てから必要な能力を得ることが、高校野球の目的であり、それは甲子園が中止になっても失われない。また、「目標」としての甲子園は高校の約2年半で完結するが、「目的」としての甲子園で得たものは、その後の人生で大きな武器になる。

 ならば“目的としての甲子園”に目を向け、高校野球で得たものを発表する場を作ろう。それが「夏の甲子園大会オンライン」だった。川島氏の行動は早かった。まだ具体的な概要は決まっていなかったが、自身のフェィスブックの中で「夏の甲子園大会オンラインをやります」と告知。すると次々に賛同者が現れ、運営スタッフも増えていった。川島氏の“情熱”と“覚悟”が大人たちを動かしたのだ。大会コメンテーターには元日本ハムコーチの白井一幸氏(現解説者)も名を連ねた。

実行委員長の川島氏(中央)は日大二高2年夏に甲子園出場を果たした(写真提供 川島敏男)
実行委員長の川島氏(中央)は日大二高2年夏に甲子園出場を果たした(写真提供 川島敏男)

順位の選出基準には伝える力も

 「夏の甲子園大会オンライン」はバットもグラブも持たない大会ではあったが、35名の選出委員の投票で順位も競った。選出委員は全国から募った高校野球の指導者や教育関係者ら。

「高校野球部で成し遂げたもの、嬉しかったこと」「高校野球部でやり切れなかったこと、悔しかったこと」「これからの夢」をテーマとしたプレゼンテーションで問われたのは、いかに高校野球に向き合ったか。それを言葉にして伝えるインテリジェンスも要求された。野球の試合のように相手と戦うわけではないが、選出委員の感動と共感を得るには自分に勝たなければならない。

 トップバッターで登場したのは、今夏の青森大会ベスト8の弘前聖愛学院高。完成度の高い映像に効果的なBGMを組み合わせ、高校野球を通して「目標と仲間の大切さ」を知ったと発表した。大島海洋国際高は「他喜力」をキーワードに小林侑(たすく)主将(3年)がプレゼン。大島海洋国際高は毎年、部員がなかなか9人揃わない。「その環境の中で、高校野球を通して大きく成長してくれたのが伝わってきた」と、増子良太監督は感無量だったという。増子監督は2003年夏に都雪谷高の主将として甲子園に出場している。

 国際学院高は昨年夏に徐々に視界がふさがっていく難病になった斎藤塁君(3年)がプレゼン。目に靄(もや)がかかったような状態になり、ボールの行方も追えなくなったが、仲間や立原誓也監督に支えられ、高校野球を全うした日々を伝えた。

 持ち時間の10分間、熱弁を振るったのが、選手宣誓の大役を務めた札幌日大高の加藤愛稀主将(3年)。チームとして取り組んできた組織の活性化などについて理路整然と話した。加藤主将は「夏の甲子園大会オンライン」で、自分たちが積み重ねてきたことを伝えるための表現力を学んだという。昨秋は道大会準優勝の札幌日大高は、「目標としての甲子園と、目的としての甲子園の違いが明確になるのと、甲子園を目指す中で何を得て、それを今後の人生にどう活かしていくか、選手に再確認させられる」(森本卓朗監督)と、「夏の甲子園大会オンライン」に参加した。

女子マネージャーがプレゼンした豊野高が優勝

 優勝したのは、女子マネージャーの視点からプレゼンをした豊野高だった。部員数が多くない豊野高では、女子マネージャーの仕事が多岐に渡る。活動中は動き通しだが、一つひとつに辛抱強く、丁寧に取り組むことで「忍耐力」が培われたという。みな意識は高く、夢は「日本一のマネージャー」。マネージャーとして当たり前のことが当たり前にでき、さらにそれ以上の行動をすることを指標としている。結びの「私たちは選手のお手伝いさんではなく、選手と同じ目標を追いかける部員の1人です」というメッセージに説得力があったプレゼンは、選出委員の心をつかんだ。マネージャーの伊藤寧彩さん(2年)は「これからも日本一のマネージャーと認めてもらえるように頑張っていきたいです」と誓った。

 2位になったのは富士宮東高。佐野虎太郎主将(3年)らが「感善夢結」を旗印に行ってきたことをプレゼンした。県初優勝を目標に、意識してできることは全てやるなど、真摯に取り組んできた。だが今夏は1回戦で惜敗。大勝良則監督に勝利で恩返しできなかったことを「やり切れなかったこと」として挙げた。

2位になった富士宮東高のプレゼンの様子(写真提供 大会実行委員会)
2位になった富士宮東高のプレゼンの様子(写真提供 大会実行委員会)

 札幌日大高と同得票で3位になった狭山清陵高は、浅見翔吾主将兼学生コーチ(3年)がプレゼンテーターに。浅見君は、試合に出場できない学生コーチという立場を受け入れながら、主将としてチームを引っ張った日々を振り返った。

出場したことで、自分の成長を確認できた

 「夏の甲子園大会オンライン」は、来年の第2回に向けて動き出している。「出場したことで、自分の成長を確認できた」と振り返る狭山清陵高の浅見君は、次は自分が大会を運営する側に回りたいという。また今夏の埼玉16強(西部地区予選5回戦進出)に導いた同校の遠山巧監督は「高校教育でもプレゼンテーションは大事だが、なかなかその場がなかったので」と他校にも参加を勧めている。

狭山清陵高は浅見主将兼学生コーチがプレゼンした(写真提供 大会実行委員会)
狭山清陵高は浅見主将兼学生コーチがプレゼンした(写真提供 大会実行委員会)
浅見主将は試合には出場できない学生コーチを兼ねることで人間的に成長できたという(写真提供 大会実行委員会)
浅見主将は試合には出場できない学生コーチを兼ねることで人間的に成長できたという(写真提供 大会実行委員会)

 累計268人が視聴した「夏の甲子園大会オンライン」。筆者が視聴して再認識したのは、たとえ甲子園という目標にたどり着かなくても、甲子園を目指す日々が大きなものをくれる、ということだ。立場は関係ない。チームのサポートに回っても、高校野球に全力で向き合った先に、人生を渡っていくための“プレゼント”が待っていると。もしかしたら高校野球の約2年半は、この“プレゼント”を受け取るためにあるのかもしれない。

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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