認知症は治さなくてよい、そのままで十分。それが認知症医療と介護の出発点だと、これまで訴えてきた。なぜか。アルツハイマー病を代表として認知症は「治らない(根治療法のない)病」であり、治そうとすることが多くの問題の元だからである。

 それは、アルツハイマー病に対する新薬「アデュカヌマブ」が米国食品医薬品局(FDA)に承認(本年6月7日)されたことでも、変わらない。新薬は、米国の製薬会社バイオジェンと日本のエーザイが開発を進めてきた認知症の「根本治療薬」と言われるもので、メディアでも「画期的」と報じられ、大きな話題になっている。日本でもすでに申請され、年明けにも承認される見通しがある。しかし、臨床試験の結果を見る限り、新薬の効果は不十分で「根本治療薬」とはとても言えない。実際に臨床現場で使うには高いハードルもある。

 とくに心配されるのは、メディアの影響で「認知症が治るようになった」「早めに薬を飲めば大丈夫」という誤解が広がり始めていることだ。認知症の人と家族が周囲から「早く薬で治せばいいのに」という目でみられたり、「認知症になってはいけない」という見方がますます強まったりする危険がある。認知症が治らない病であることは何も変わらないのに、社会からの「治れ圧力」は、認知症の人と家族を苦しめる。本当に効く薬ができたのならまだよい。中途半端な効果しかない薬のために、認知症に対するネガティブな見方が広がることは誰の利益にもならない。

新薬投与しても認知機能は低下

 アルツハイマー病になる原因として、アミロイドベータ蛋白(以下アミロイド)という物質の沈着が脳神経細胞の脱落や変質を起こし、認知機能を悪化させるという「アミロイド仮説」が有力視されてきた。アミロイドを除去できる抗体としてバイオ技術で開発されたのが今回の新薬で、理論通りなら、脳にたまったアミロイドが大幅に減り、脳神経の脱落が起きなくなって、アルツハイマー病の発症や進行が抑えられる。これまでのみかけの症状進行を抑えるだけの抗認知症薬とは異なる「根本治療薬」である。

 ところが、実際は理論通り行かなかった。以下、バイオジェンとエーザイの資料をもとに見ていく。薬を4週ごとに1年半、点滴投与した試験で、脳のアミロイドの沈着を59~71%減らすことができたにもかかわらず、肝心の認知機能の低下は止められなかった。

 試験の対象者は、認知症かどうかを調べるスクリーニング検査(MMSE)で30点満点から23点までの人たち(平均は26点)。23点以下を認知症と判定するので、認知症になる前の人(正常~軽度認知障害)が多くを占めた。薬を入れない点滴を1年半続けた対象者群はMMSEが元の得点より平均3.3点低下したのに対し、新薬を入れた点滴をした対象者群は、平均2.7点の低下であった。0.6点低下が抑えられたことになる。(これは高用量の新薬を投与した場合で、低用量の新薬を投与した対象者群では逆に0.1点余計に低下した。)これでは、アルツハイマー病の発症を抑えたとか認知機能の悪化を抑えたとか、とても言えない。悪化が0.6点分少なくて済んだといっても、1年半で3点近くは低下しているのである。これを効果と感じられる人はほとんどいないであろう。

 さらに、一般的な副作用として「アミロイド関連画像異常」が挙げられた。脳MRIでみられる脳のむくみや小出血斑のことで、通常は症状として現れないが、頭痛、錯乱、めまい、視力の変化、吐き気などの症状が現れる人がおり、重篤になる人もいるとされた。

アミロイド消えたが…「仮説」の限界

 こうした結果は何を意味するか。目標であったアミロイドの除去は成功した。にもかかわらず、認知機能低下は進んでしまった。これは、アミロイド沈着がアルツハイマー病の原因だという仮説自体が不確実であることを示している。事実この10年余りの研究の進展で、医学界ではアミロイドが主たる原因だという見方は薄れてしまった。可能性にかける新薬開発には敬意を表したいが、結果は、仮説が過去のものだと改めて示したといえそうだ。

 FDAの新薬承認の過程でも、この結果は問題になった。専門家による諮問委員会では、11人の委員全員が「有効性を示すエビデンス(証拠)がない」として新薬の承認に賛成しなかった。委員会の意思に反する形の今回の承認に対して、3人の諮問委員が抗議の辞任をした。米下院も承認の経緯について調査を始めた。前代未聞の事態である。

月1回点滴、年610万円の薬価

 新薬への期待とメディア報道が相まって、新薬への誤解もとても多い。

 新薬の対象は、前述のように、認知症になる前の軽度認知障害の人とごく初期のアルツハイマー病の人だけである。いま認知症で悩んでいる人たちの大部分は使うことができない。今回のニュースに喜んだ認知症の人やその家族も少なくなかった。しかし残念なことに、認知症の人には、ごく初期の人を除いてほとんど恩恵がない。

 薬は点滴で、手軽な飲み薬ではない。診察後に腕に点滴針を刺して約1時間、毎月病院に足を運んで何年も続けることになる。

 実際に使うためには、ほかにもハードルがある。まず、薬を使える対象者をどうやってみつけるか。軽度認知障害またはごく初期のアルツハイマー病で、脳にアミロイドがたまっている人(アミロイド陽性者)でなくてはいけない。新薬の試験では、脳の画像でわかるアミロイドPETという装置で調べられた。アミロイド陽性の人は脳の広い部分が赤く映る。新薬が効いてアミロイドが減れば、赤い部分が小さくなる(またはなくなる)。アミロイドPETで見れば、一目で薬の効果がわかる。しかし、この装置は国内にまだ約30台しかなく、検査費用も1回数十万円(保険適用はない)。これだけでは対象者をみつけられない。

 PETの代わりに、脳脊髄液(髄液)の検査で脳内のアミロイドを推し量ることはできる。髄液は背中の腰部から針を刺して採るが、手技に習熟した医師にしかできない。採取後1時間はじっと寝ている必要もある。この手間は容易ではない。血液検査で調べる手法の開発も進んでいるが、いまだ実用化されていない。

 さらには、高額な薬価の問題がある。1年間点滴を行って、1人56,000ドル(約610万円)。臨床試験では1年半だったが、治療を望むならよりもっと長くなる。この医療費を誰がどのように負担するのか。エーザイCEOの内藤晴夫氏は、入院医療費や介護など社会保障費を縮減できることを挙げて「リーズナブルな価格設定」と述べている。しかしこれは、認知症を根本的に治す薬としての効果が十分あることを前提としており、前述の通り効果不十分では、話は変わる。

「治る」意識が認知症の人を苦しめる

 新薬の登場で強く懸念されるのが、「認知症は治る」という人々の意識である。これは必ず、「認知症になってはいけない」「認知症の人は早く薬で治すべきだ」という認知症への否定的な見方を強化してしまう。このような認知症に対する社会の「治れ圧力」は、認知症の人と家族をさらに苦しめずにおかない。診療する医師もまた「薬を使えば大丈夫」という安易な思いから、その人の生活や楽しみへの注目を今以上に失くしかねない。

 効果不十分の新薬のために、認知症の人と家族を追い詰めるなどあってはいけない。認知症が「治らない病」であることに変わりはない。誰でも認知症に堂々となっていいし、認知症のままでよい。その見方を社会全体が持ちたいのである。詳しくは、「認知症そのままでいい」(ちくま新書)をご覧いただきたい。