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今年はEXIT兼近が挑戦!「24時間チャリティーマラソン」はいかにして生まれたのか

てれびのスキマライター。テレビっ子
2011年に「アースマラソン」を完走したときの間寛平(写真:アフロ)

本日27日から28日にかけて日本テレビで放送の『24時間テレビ』。名物企画の「24時間チャリティーマラソン」は今年、EXIT兼近大樹がチャリティーランナーに名乗りをあげ、単独としては5年ぶりの挑戦となった。

そもそもこの「24時間チャリティーマラソン」はいかにして生まれたのか、今一度振り返ってみたい。

「チャリティーやでェ」

「24時間チャリティーマラソン」が初めて行われたのは、1992年の『24時間テレビ』だ。この年の『24時間テレビ』は異例づくしの回だった。その前年に史上最低視聴率を記録してしまった『24時間テレビ』。一方で、日本テレビの『24時間テレビ』のパロディとして始まったフジテレビ版『24時間テレビ』である『1億人のテレビ夢列島』は、盛り上がりが最高潮に達していた。日テレが最低視聴率に沈んだ91年には、ビートたけし、タモリ、明石家さんまの「BIG3」によるあの伝説の「車庫入れ」が行われ大きな話題となっていたのだ。

そんな中で、日本テレビは真面目で堅苦しいイメージがこびりついた『24時間テレビ』をリニューアルすることを決断した。

プロデューサーに指名されたのは小杉善信と渡辺弘。そして彼らが総合演出の一人に選んだのはハウフルスの菅原正豊だった。それまで『24時間テレビ』は常に日本テレビ社員が務めてきた演出を社外の人材に求める異例中の異例の起用だった。

そして司会はダウンタウン。今以上にヤンチャで血気盛んだった頃だ。チャリティーとは真逆のイメージ。大抜擢だった。

菅原はこの座組で「チャリティーやでェ」という番組らしさとダウンタウンらしさを両立した名コピーをつけた。

原点回帰

小杉たちが番組リニューアルに際して掲げたのは「原点回帰」。

この頃の『24時間テレビ』は、いつしか「2時間特番×12」というような構成になっていた。つまり、それぞれのクオリティを重視するあまり、ドキュメンタリーやアニメ、バラエティ企画の2時間特番がぶつ切りで放送されているだけで、実質的にひとつの番組にはなっていなかった。そこで「24時間×1番組」の生放送のイベントという原点に戻ろう、と考えたのだ。

その大きな柱のひとつとなったのが「24時間チャリティーマラソン」だった。

だが、この企画の発案はプロデューサーの小杉や渡辺でも、総合演出の菅原でもない。

小杉は『マジカル頭脳パワー!!』や『いつみても波瀾万丈』など当時の日本テレビの人気番組のレギュラー出演者だった間寛平が番組に欠かせないと考え、当時の寛平のマネージャー・比企啓之に話を持ちかけた。

「寛平さんで何かいい企画ないかなあ」

その問いかけに比企は目を光らせた。

「どうですか、番組の中で、スタートからエンディングまでの24時間、うちの寛平を走らせたら」

思わぬ提案に小杉は一瞬戸惑った。だが、すぐに身を乗り出した。

「おもしろい!」

けれど、そんなこと本当に可能なのだろうか。不安がる小杉に比企は「大丈夫だ」と自信満々に答えた。

実は間寛平は88年から、「スパルタスロン」というマラソンレースに挑戦していた。このレースはアテネとスパルタの間の246キロを36時間以内で走るという過酷なもの。88年、90年に挑戦した際は、無念の途中リタイヤに終わったものの、91年の挑戦で35時間4秒のタイムで見事完走。日本人参加者の中では2位、全参加者の中でも20位という好成績を記録していたため、できるという確信があったのだ。

「24時間で200キロぐらいだったら何ていうことはないですよ」

比企は自分のことのように胸を張った。

「わかった。なら、その企画、すぐに通すから」

本人が不在のまま、この歴史的な企画が決まっていったのだ。

「勝手に決めてもらっても困るがな」

比企に「ごっつい仕事取ってきましたよ」と喜々として報告され、寛平は頭を抱えた。

「ギリシャと東京いうのは気候も違うし、真夏の日本で200キロ走れるか。おれ、自信ないわ」(※間寛平:著『ほな、走ろうかぁ―間寛平、走りつづけるぼくの人生』より)

そんな不安をよそにこのマラソン企画の火蓋はもう切って落とされていたのだ。

無念のリタイヤ

本番中、日本テレビの本部で番組の進行の指揮を担っていたのは演出の一人・五味一男だった。五味は、予想以上にマラソンの画が強いことに驚いた。間寛平が走っている、それだけの画だが、視聴者の目が釘付けになっていることを感じた。

だから、五味は当初の構成案を無視し、準備していたものを飛ばして、マラソンの中継を何度となく映した。

しかし、その盛り上がりは思わぬ弊害を呼んだ。この年は間寛平が走るコースを事前に公表していたため、街頭に人が溢れてしまったのだ。寛平が走るスペースも確保するのが難しい状況にもなった。

しかも、予想以上の猛暑が寛平を苦しめ、寛平の最初の挑戦は無念の途中リタイヤという形で終わった。

そんな寛平のマラソンに視聴者が釘付けになったこの年に番組の代名詞となるテーマソング「サライ」も生まれ、視聴率も当時歴代最高視聴率となった17.2%を記録。瞬間最高視聴率も37.7%。リニューアルは大成功したのだ。

こうして「24時間チャリティーマラソン」は誕生した。いわば、新しい『24時間テレビ』の象徴だったのだ。

無念のリタイヤとなったことで皮肉にも翌年もこの企画が継続して行われるようになった。間寛平は200キロを走破しリベンジを達成(ちなみに寛平はこれ以降も「アースマラソン」を行うなどマラソンがライフワークとなった)。その後、ダチョウ倶楽部らへと繋がれ恒例企画となっていくのだ。

今年挑戦する兼近は「こんなまともじゃない人間走るんだと、自分でもびっくりした。こういう見た目のやつが一生懸命走っている姿見て、ふさぎ込みがちだった世の中を少しでも明るくしたい」と制作発表の場で語っている(「スポーツニッポン」2022年6月27日) 。一方で「今回真剣に走ろうと決めているが、きついなと思ったら序盤で諦めるかもしれない。諦める勇気も与えられたら」と笑わせることも忘れなかった。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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