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野口五郎にハイキック? 五木ひろしはなぜ歌うとき、拳を握るポーズをするのか

てれびのスキマライター。テレビっ子
細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)

昨年末に放送された『第71回NHK紅白歌合戦』では、50回連続出場を果たした五木ひろし。

それに先立ち12月4日に放送されたBS-TBS開局20周年記念特番『輝く!永遠の名曲大歌謡祭』に出演した際、格闘技フリークでも知られる司会の関根勤とこんなやりとりがあった。

関根: 番組で五木ひろしさんが野口五郎さんとキックボクシングのスパーリングみたいなのをやっていて、五木さんのハイキックがすごい上がるんですよ。野口五郎さんの後頭部蹴ってたのを見たんです(笑)。

五木: 最初の事務所がキックボクシングの事務所だったんですよ。

関根: 沢村忠さんの!

五木: そうそう、そこで空いてる時間は選手としょっちゅうスパーリングしてたんですよ。

関根: だからだ!

五木: 人を見るとね、後頭部を蹴りたくなるんですよ(笑)。

沢村忠といえば「真空飛び膝蹴り」で一世風靡したキックボクサー。彼を主人公として描いた梶原一騎原作のマンガ『キックの鬼』はアニメ化もされ、こちらも大ヒットした。

そんな沢村忠が所属したキックボクシングの事務所に、なぜ、演歌歌手の五木ひろしが入っていたのか。

キックボクシングをつくった男

そのことが詳しく書かれているのが細田昌志による『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)だ。

タイトルにあるように、沢村忠を発掘し、スターにした男こそ、野口修という人物。本書はそんな稀代のプロモーター・野口修の評伝だ。キックボクシンの誕生から繁栄、そして物悲しい末路まで描く中で、芸能史はもちろん、日本の思想史まで横断していく、2段組みで約560ページにわたる大著である。

野口の父・野口進は、「ライオン野口」の異名をとり、第2代日本ウェルター級王者にもなったことのあるプロボクサー(加えて、若槻禮次郎民政党総裁を襲撃した右翼活動家でもある)。そして修の弟・恭もまた日本フライ級王者となり「日本ボクシング初の親子日本王者」に輝いたボクシング一家だった。

ちなみに本書では野口恭の試合を実際に観戦したことがある人物から証言を得ている。その人物とはビートたけしだ。

著者の細田昌志は放送作家でもあり、自身が担当する番組にたけしがゲスト出演したときの帰り際、意を決して尋ねたのだ。

「あの、師匠は、野口恭の試合はご覧になっていますか」

すかさず、本人が振り向いた。

怒られるのは覚悟していた。関係者の叱責も想像していた。(略)

ほんの数秒ののち、ビートたけしは特徴的なあの声のトーンで、こう言った。

左だろう

YESでもNOでもない意外な回答に何も返せないでいると、「野口恭の試合は観てるよ。中学生の頃に親父に連れられて、浅草の公会堂で。二、三度観てるかな、左のいい選手でさ」と言った。

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

一方、兄・修は、父を継ぐ形でボクシングのプロモーターとしてのキャリアをスタートする。そんな中でタイとの人脈を得た修はやがて、大山倍達が率いる極真会大山道場とムエタイの対抗戦を企画。この空手vsタイ式ボクシングの他流試合用に作った変則ルールを野口修は「キックボクシング」と名付けた。即ち、タイで行われたこの興行こそキックボクシングの誕生の瞬間だった。

つまり野口修は、前述のように沢村忠ブームを作っただけでなく、キックボクシングそのものを作ったプロモーターなのだ。

その後、日本初のキックボクシング興行直前に野口は大山倍達と決別。そこで白羽の矢が立ったのが沢村忠こと白羽秀樹だった。目新しくド派手な沢村忠の戦いはアニメ『キックの鬼』との相乗効果で一大旋風を巻き起こしていったのだ。

三谷謙の敗者復活劇

さて、ここまで五木ひろしの影は当然ながらまったくない。

大きな転機となったのが、野口と銀座のクラブ「姫」のオーナーマダムだった山口洋子との出会いだ。

現在はその肩書きのままテレビで活躍することはなかなかないが彼女は『0スタジオ おんなのテレビ』(TBS)で立川談志とのコンビで司会を務めたり、作詞家としても活動していた。そして、彼女がゲスト審査員として参加していた番組が読売テレビ制作の『全日本歌謡選手権』だった。

「10週勝ち抜けば歌手デビュー」という視聴者参加のオーディション番組でありながら、プロの出場も認めていたため、顔と名前を売りたい下積みの歌手の応募が殺到。天童よしみもこの番組出身だ。浜口庫之助、船村徹、淡谷のり子、竹中労、小池聰行といったうるさ型のレギュラー審査員の厳しい審査が特徴のひとつで、ゲスト審査員として中堅・若手どころだった山口洋子や平尾昌晃が隔週で出演していた。

その番組に再起を期して出場したのが三谷謙だった。

上原げんとに弟子入りし、「松山まさる」の芸名でデビューしたが、デビューからわずか2ヶ月で上原が急死。後ろ盾を失った彼の曲はまったく売れなかった。クラブやキャバレーの弾き語りで日銭を稼ぐ日々。生活するのには十分な金を得て「これはこれで一つの生き方なのかもしれない」と達観した気になっていたが、『全日本歌謡選手権』で素人と並んで舞台に立ち、審査員にこき下ろされ、屈辱に震えているプロの歌手が目に映り、ああはなりたくないと思うと同時に沸々と闘志がわいてきた。

「俺は弾き語りをするために、歌手になったのか。それが子供の頃の夢だったのか」

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

彼は『全日本歌謡選手権』への出場を決意する。もし失敗したら、故郷へ帰るつもりだったという。

1週目を勝ち抜いた三谷は、「目ン無い千鳥」を歌う。その気迫みなぎる熱唱に、山口洋子は衝撃を受けた。

「そんな気持ちの悪い歌い方をして」と淡谷のり子が酷評したが、まったく耳に入らなかった。山口洋子は大御所に気兼ねせず、「男一匹の勝負を挑んでいる。殺気というか、ただならぬ気迫を感じました」と絶賛した。

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

視聴者も三谷の勝ち抜きを後押ししていく。司会の長沢純も「三谷を落とすなよ」などと視聴者から声をかけられるようになったという。

世の中が三谷謙の「敗者復活劇」を気にしていた。ただでさえ、視聴率25%の高視聴率番組が、三谷効果でさらに上昇した。

「今週の三谷どうだった?」とサラリーマンが話題にしていたというから、大袈裟でなく一種の社会現象になっていたのである。

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

「五木ひろし」の誕生

三谷に惚れ込んだ山口洋子と平尾昌晃は、水面下で彼の“再デビュー”の準備を進めていた。

山口が営むクラブ「姫」の常連客には、渡辺プロダクションの渡辺晋やホリプロの堀威夫もいたため、そういった大手プロダクションに所属させることもできただろう。だが、山口はそれを選ばなかった。平尾昌晃はこう証言している。

「彼女の理想は、『今まで、どこにもいなかった歌手』――となると、自分でプロデュースするしかない。つまり、大手の事務所に紹介する気は最初からなかったと思う」

    (略)

「その頃、大人気の沢村忠君の事務所の社長である野口さんが、お店によく顔を出していた。もし、この沢村君の事務所に所属させれば『今までにない』ことだから話題になるはず。大手と違って担当者も少ない。自由にやらせてもらえる」

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

キックで一時代を築いた野口にとって、新たな挑戦だった。

そうして野口プロモーションに龍反町(※反町隆史の芸名の由来となったプロボクサー)擁するボクシング部門、沢村忠のキックボクシング部門に加え、芸能部門が誕生したのだ。

そして1971年、山口洋子作詞・平尾昌晃作曲の「よこはま・たそがれ」で三谷は野口プロから念願の再デビューを果たす。

これを機に芸名を「五木ひろし」と改めたのだ。

再デビュー前の彼は電話番やお茶汲み、掃除、チケットのもぎりと雑用全般をこなしていた。当時を振り返り龍反町は述懐する。

「彼はよく練習も見学していて、実際にミットを打ったりもしていた。(略)今では笑い話になるけど、『このまま売れなきゃ、レフェリーかリングアナウンサーをやらされることになる』って心配そうに言ってたなあ」

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

この頃のことが、冒頭のエピソードにつながっていくのだろう。

「よこはま・たそがれ」は大ヒットを記録し、見事に再起を果たした五木ひろし。

その勢いのまま、1973年にはやはり山口洋子・平尾昌晃コンビが手がけた「夜空」をリリースする。

この曲で五木ひろしは、本命と目されていた沢田研二をかわし、1973年の「日本レコード大賞」に輝いた。

さらに、野口プロは、同年度の「日本プロスポーツ大賞」でも、三冠王と通算本塁打数の記録更新、チームの9連覇に貢献したプロ野球の王貞治や、3度の本場所優勝で学生横綱初の横綱昇進を果たした大相撲の輪島大士、5つの主要トーナメントを制したプロゴルフの青木功、通算6度目の世界王座防衛をはたしたボクシングの輪島功一などの各界の“ライバル”たちを制し、キックボクシングの沢村忠が受賞した。

こうして野口修は、プロスポーツ界と芸能界という異なる世界で同時に頂点に君臨するという前人未到の偉業を成し遂げたのだ。

沢村忠に真空を飛ばせた男』はその容易ならざる経緯をその暗部を含めて克明・詳細に描いている。

五木ひろしの「レコード大賞」受賞曲「夜空」で印象的なのはサビの箇所だ。

歌いながら、握りしめた拳を力強く叩きつける。パンチをイメージした異色の振り付けである。

野口プロ所属の証にして「俺だって戦っている」というアピールでもあった。

 (『沢村忠に真空を飛ばせた男』より)

現在もなお、五木ひろしをモノマネする際に使われるように彼の代名詞にもなっている半身で構えて、右手で拳を握るポーズは、実はファイティングポーズが由来。つまり、苦しい下積みから再起をかけて、格闘技のプロモーションである野口プロに所属した「今まで、どこにもいなかった歌手」という五木ひろしのアイデンティティを示したものだったのだ。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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