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年間1,000本超! K-PRO児島がお笑いライブを作り続ける原動力は「悔しさ」

てれびのスキマライター。テレビっ子
「K-PRO」児島気奈代表(撮影:倉増崇史)

現在、東京では毎日のように多種多様なお笑いライブが開催されている。

テレビでは芸人たちの活躍の場が広がる一方で、その人材の硬直化、高齢化が問題視されているが、ライブ界では、テレビとは一味違うお笑いの世界が広がっている。昨今、テレビでも話題を集めている「お笑い第7世代」の勢いもあり、若手から中堅まで人気・実力を備えた芸人たちがひしめき合い、多くの観客を集めているのだ。

そんな中で圧倒的な存在感を放っているのが「K-PRO」だ。

K-PROは、まだお笑いライブの数が限られていた15年前に設立され、現在では若手・中堅芸人のネタライブなどを中心に毎月40~50本ものライブを制作。昨年、手がけたライブ総数はなんと1,051本! K-PROのライブに出ることが、東京で活動している若手芸人にとってひとつのステータスにもなっている。間違いなく、現在のお笑い文化を下支えしている存在だ。

そのK-PROの代表は児島気奈さん。三四郎やEXITらがブレイクのきっかけになった『ゴッドタン』の人気企画「この若手知ってんのか」で解説役も務めていることでもお馴染み。彼女がどのようにお笑いライブの世界に入り、利益の出にくいお笑いライブでいかにして生き残ってきたのか、話を伺った。

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要所要所で味わう悔しさ

児島気奈はテレビを見るのが大好きなお笑いファンだった。『ボキャブラ天国』などに夢中になり、大阪や福岡など全国各地のお笑いファンと文通を始め、ローカル番組のビデオを貸し借りしたり、地方の新聞記事などを取り寄せたりするようなコレクター気質のファンだった。お笑いライブにかかわりだしたのは、高校3年生の時。文通相手のひとりから「一緒に手伝ってみない?」と誘われたのがきっかけだった。

中野でやっている芸人さんが主催する身内の自主ライブでした。チラシに「ボランティアスタッフ募集」って書いてあったのを友達が見つけたんです。

当時ライブのことなんてわかっていなかったから、『ボキャ天』に出てる爆笑問題さんやネプチューンさんのような芸人さんに会えるもんだと思って行ったら、全然知らない無名の芸人さんしかいなくて(笑)。ふてくされてちょっとサボっていたら「なんで一番年下が楽屋で座ってんだよ!」って芸人さんに怒られたんです。その時に、なんでこんなテレビで見たこともない人に怒られなきゃいけないんだろうって悔しくなって。じゃあ、次はもっと働いて、この人たちに「いてくれてありがとう」って言われるようになってやるって思って「次も手伝わせてください」と続けていったのが始まりですね。

部活も受験勉強もせずにお笑いライブの手伝いにのめり込んだ。大学進学後もそれは続き、大学に行って、ライブを手伝い、打ち上げにも参加し芸人の話を朝まで聞いて、そのまま大学に行くというような生活になっていった。

何か覚醒しちゃった感じでしたね(笑)。袖からマイクを出したりする舞台転換とか、音響、照明を独学で勉強して手伝ったり、駅前でチラシを配ったり、なんでもやりました。

これを職業にするとか、これでお金を稼ぐとかではなくて。交通費すら出ないのが当たり前で、なんなら赤字分を自分たちで出したりしてました。

それでも続けてたのは意地ですね。もう悔しいからいつかギャフンと言わせてやるっていう気持ちのほうが強かった。誘ってくれた友達も「やっぱりお笑いは見ているほうが楽しい」っていう名言を残して辞めていきました(笑)。私は「いや、見るよりやったほうが絶対楽しい」と。

「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)
「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)

大学時代は自らも芸人に挑戦をしたりもした。キャン×キャンやマシンガンズなどとも同じ舞台に立った。

最初にライブに誘ってくれた女友達から「ネタをやってみたい」って言われてコンビを組んで漫才を書いたりしてました。身内の勉強会ライブで披露する程度でしたけどね。もしそこでウケてれば続けてたかもしれないですけど、スベってばかりだったので。でも、そうやってスベった経験をして人前に立つ大変さを知ったからこそ、違う目線が出来て、お笑いライブを続けてこれたかもしれないです。芸人さんがやりにくい舞台が感覚的にわかるようになりました。例えば、最前列に空席があるとウケている気がしなくなっちゃうとか。

2003年、21歳の頃に初めて主催者としてライブを開催した。もっともこの時は、会場を借りる際に代表者の欄に名前を書いたり、お金を支払うような事務手続き上の「代表者」にすぎなかった。

だから「お笑い界を変えてやるぞ!」みたいな意気込みとかは一切なくて。よく誤解されるんですけど、「KーPRO」の「K」も児島の「K」ではないんです。別のスタッフの頭文字の「K」をとった「K-プロレス」というお笑いライブを最初にやって、それを続けていくうちに自然と「K-PRO」と呼ぶようになったんです。

1回目のライブは新宿Fu-に、お客さんが120人近くパンパンに入ったんです。一番前の席を取っ払って桟敷席にするくらい超満員。「こんなに簡単に楽しい思いができるなんて!」と思って2回目をやったら大失敗。絶対お客さんが来るとおごってしまって、宣伝もせずに1週間前まで出演者も決めずにやったら、当然お客さんはほとんど集まらなくて。10人くらいの観客を見て芸人さんが私に「俺らはどんなに客がいなくても全力でやるから」って優しさで言ってくれたんですよ。それが私は逆に悔しくて。芸人さんにこんな恥ずかしい舞台に立たせてしまった、と。そこから、本当の意味で真剣になりました。だから振り返ってみると要所要所で味わう悔しさが続けてこられた理由という感じはします。

「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)
「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)

村田渚との出会い

当時、お笑いライブといえば、事務所ライブや、新人芸人たち中心の勉強会ライブの他は、80年代後半から月1回で続けれられていた渡辺正行主催の「ラ・ママ新人コント大会」(※参照:下記関連記事)くらいしかなかった。そんな中で、芸人でも構成作家のようなお笑い関係者でもない女性がお笑いライブを主催することは異例のことだった。

ちゃんと主催としてライブをやり始めたあとは、仲がいいからとか、出待ちして直接芸人さんにお願いするとかではなく、ちゃんと事務所を通して“仕事”として芸人さんに来てもらうということを徹底しました。

最初の頃は「女の人がライブをやるのは何のつもりで?」みたいな反応でしたね(苦笑)。「芸人さんと繋がりたいから」みたいなファンだと最初は相当怪しまれました。こちらは「芸人さんの面白さをお客さんに知って貰う機会にしたくて」と手紙に書いたりして丁寧に説明してました。「○○さんに出てほしいです」とオファーしたら「○○さんは出せないけど、1年目の△△ならいいですよ」と言ってもらえて、それでようやく「前回△△さんが出ました」と別の方にオファーするという繰り返し。そうやって出てもらった芸人さんが「いいライブだったよ」って言ってくれて、口コミで徐々に信用を築いていきました。

K-PROにとって大きな転機のひとつとなったのは、元フォークダンスDE成子坂の村田渚(故人)との出会いだった。『ボキャブラ天国』などで名声を高めた村田は芸人仲間から「天才」と称され、後輩芸人たちからの人望もあつかった。

当時、村田渚さんはコンビを解散されたばかりで、MCとして出てくれないかと声をかけたんです。事務所から一度断られたんですけど、後日改めて電話がかかってきて「本人が出たがってるんで出ます」と。ちょうどご本人もピン芸人としてどうしようと模索していた時期だったんです。それで「前回、村田渚さんがMCをやってくれました」という名刺でオファーすると、「渚さんが出ているんなら」といろいろな芸人さんが出てくれるようになったんです。

「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)
「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)

しかし、お笑いライブでは採算はなかなか取れない。毎月5~10万の赤字。たとえ満員になっても3~5万は赤字が出てしまう。それをスタッフみんなのバイト代で出し合うような綱渡りの運営をしていた。

そういうライブを続けている中でも渚さんに、何度か出ていただいていて、お話させてもらっていたんです。その時に文通相手とかからビデオを取り寄せたり、雑誌やビデオを買い漁っているって話をしたら渚さんから「そうやって使ったお金分、俺らを使って稼がなきゃダメだよ」と言われたんです。その言葉を聞いて、お笑いで使った分だけお笑いで取り返せるようになるまで、続けようっていうのがひとつの目標になったんです。

芸人が一番楽しめる舞台

K-PROを立ち上げ5~6年が経ち、月に10~20本ライブを打てるようになってようやく採算が取れるようになってきた。だが、その矢先の2011年、東日本大震災が起こる。多額の会場キャンセル料が発生し窮地に立たされるが、そこで大きく意識も変わった。

正直、それまでは趣味の延長みたいな感じで続けていければいいかなってくらいの感覚だったんです。でも震災で自粛しなきゃいけない時期があって、芸人さんが人前に立てなくて、お笑いもできない。そういう悔しくてしんどい時期を一緒に乗り越えてきたという仲間意識が強くなりました。

こんなに面白い人たちがいっぱいいるんだったら、その人たちがなんとか辞めないように、お笑いライブが“仕事”としてお金が稼げるようになるように動いていかなきゃいけないな、という気持ちの変化というのはありましたね。舞台で10~20分笑わせ続けることができるというスキルは、他の職業では絶対無理なことだと思うんですよ。芸人さんは、単に5分漫才をして笑わせてるだけではないですから。その裏にどれだけ考え、どれだけの練習量があるかということ。そこに対する評価をお金という形で示せるようにしていかないといけないと思います。

若い頃から芸人と接し、自身も芸人の経験があるからこそ、芸人の生理を熟知し、「児島さんがいたら安心する」と言われるほど芸人がやりやすい環境づくりをすることができる。

芸人さんってすごく繊細なんです。たとえば、楽屋で自分が座っていた席に荷物が置かれただけで、もうそこのイスに座らなかったりする。そこに気づけるか。その積み重ねなんです。眉毛をぴくっとさせたのを見て「今の嫌だった?」「ここ、変えたほうがいい?」と、芸人さんがやりたくないことを探っていく。芸人さんの小さな不満をできるだけ解消していく。それはたぶん、自分がスタッフを始めた時に「使えねえスタッフだな」と罵られたことの延長上で経験として得てきたものかなと思います。

「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)
「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)

現在はメインのスタッフ4人と日替わりで手伝う10人くらいのスタッフで毎月40~50本ものライブを制作している。昨年手がけたライブ数はなんと1,051本にのぼる。東京で活動する有望な若手芸人のほとんどがK-PROライブに出演経験があるとも言われ、ファンからの信頼もあつい。

お客さんが、ストレスなく観られるというのが絶対的な基準としてあって、開場時の整列や誘導から会場内もリラックスしてもらえるように意識してます。なおかつファンは、一番芸人さんの力が発揮されている舞台を見に行きたいはずですから、「芸人さんが一番楽しんでやっている舞台がK-PROのライブだ」と言ってもらえるような努力は常にしています。

ただ、「K-PROが絶対的な正義だ」みたいに神格化されてしまうこともあるんですが、それはもう全然違うと思うんです。やっぱり王道は事務所さんがやっている事務所ライブ。それがあった上で、その横の端でやっているのがK-PROというイメージ。事務所さんから芸人さんをお借りしている立場だからこそ、事務所ライブが盛り上がるように、ここでいろいろ芸人さんたちが交わって、それぞれの事務所に持って帰って成長する。そのお手伝いができればいいな、と。「ライブといえばK-PRO」というよりは、応援してる芸人さんそれぞれの事務所ライブを一番に思ってほしいし、芸人さんも自分の事務所ライブを大事にしてほしいなと思います。

15年間続けてきた中で、客層の変化はあったのだろうか。

最初はお客さんも女性がほとんどだったんですけど、最近は男性やカップルも増えましたね。一度足を運んだら2度3度運びやすい。「お笑いは好きだけどライブに行ったことはない」とか「テレビでやっているお笑いしか知らない」というような人に間口を広げるのが課題だと思います。

だけど一方で、5年前に10周年を迎えた時、「これからは新しいお客さんをどんどん入れていきたい」って言って取り組んでいったら、「もう私たちが応援しなくてもK-PROは大丈夫なんだ」って今まで来てくれていたお客さんが急に離れたということがあって。必死に応援してくれていたお客さんの心を離してしまった。そうやって「とにかく新しい人来てください」と一辺倒に言い続けるのも、お笑い界には絶対に良くないことだと思うんです。やっぱり好きで見に来てくれる温かいお客さんが足を運び続けたくなるような見逃せない面白いライブを作り続けるのが大事なんだなって思います。

最近は地方に遠征して、都内と同じくらいの規模のライブをやっています。そうすると東京でのライブと同じ空気感を持っていけるので「待ってました!」と喜んでもらえています。それは続けて広げていきたいですね。

「K-PRO」ライブ前の会場(提供:K-PRO)
「K-PRO」ライブ前の会場(提供:K-PRO)

「ライブ」の価値

若手芸人が主体のライブの場合、出演が決まっていてもテレビ番組からのオファーがあると、ライブ出演をキャンセルし、テレビの仕事を優先することが少なくない。祝福する気持ちもある一方、やはり悔しくもあるという。

やっぱり芸人さんに言われていまだにショックなのは「“仕事”が入ったのでライブはキャンセルしたい」。あまりにも悔しくて一度、「じゃあ、テレビよりギャラを払ったらこちらを優先してくれますか?」と訊いてみたら「いや、テレビ優先なんです」と。もちろん事務所さんによっても考え方が違うと思いますけど、じゃあ、「ライブ」ってなんだろうってすごく思いました。

やっぱり「ライブ」という言葉が「若手のもの」みたいな感じでぞんざいに扱われすぎている感じがします。例えば吉本(興業)さんだったら東京で「ルミネ(theよしもと)」は別格という感じがあるじゃないですか。単に「ライブに出る」と言うのと「ルミネに出る」とは違うみたいな。そういう風に「ライブ」というものの価値をもっと上げていかないといけないと思います。

以前はテレビ番組のスタッフさんがライブに来て青田買いしていくという流れがあったんですが、いまは、劇場でしっかりお客さんを呼べる確かな信頼ができて初めてテレビに呼ばれる。そういう意味では「やっぱりライブが面白いよね」と言ってもらえる要因でもあると思うので、テレビでその芸人さんを知った人に「ライブを観に行こう」と思ってもらえるようにするのもライブ側の仕事だなと思います。

「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)
「K-PRO」のライブより(提供:K-PRO)

もっと気軽にお笑いライブに足を運べるようになって、「毎年のようにこんなにも面白い人たちが劇場から出てきているんだ」というのを知ってもらいたいと児島は言う。

やっぱり私はもともとテレビが好きで、その面白さに興奮してお笑いの世界に入って行ったので、本当にテレビは憧れの世界でもあります。でも、一度実際に生のお笑いを見るという経験をしてからは、そこに一緒にいる一体感というのは何にも代えがたいものがあると思ったんです。その場でしか見られなくて、足を運んだことで得る満足感がすごく大きい。

今注目されている霜降り明星さんたち、いわゆる「お笑い第7世代」の人たちは、劇場にお客さんを集められる若いパワーなので大事にしたい。これまでお笑いブームってテレビから起きてましたけど、劇場から新しいお笑いブームを起こすことが、お笑いライブに関わる人たちみんなの使命なんじゃないかなと思います。

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■児島気奈

1982年生まれ。東京都大田区出身。高校時代からお笑いライブにボランティアスタッフとして携わり、2004年、お笑いライブ制作集団「K-PRO」を設立。

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【この記事は、Yahoo!ニュース 個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

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ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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