「月9」枠消滅? 「月9」ドラマの誕生とそこに宿る精神

「月9」で現在放送中の『コンフィデンスマンJP』(公式HPより)

昨今、“「月9」離れ”などと言われることが多くなった。

「月9」とは、90年代前後、若者を中心に絶大な支持を得て、常に高視聴率を獲得したフジテレビの月曜夜9時のドラマ枠だ。

「月9」枠消滅か? などと週刊誌などで報じられることも少なくない。

テレビ界全体、特にフジテレビの視聴率が下がり続ける中で、「月9」もまた、例外でないのはある意味当然なのだが、それまで高いブランド力を誇っていたため、矢面に立って批判されることが多いという側面もあるだろう。

そうはいっても、「月9」は、フジテレビの象徴のひとつであるのは紛れもない事実で、それが少なくとも視聴率という指標において低迷しているのもまた事実だ。

現在放送中の『コンフィデンスマンJP』も1桁台の視聴率が続いている。

全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』は、絶対王者だったフジテレビを90年代半ばにやぶった日本テレビを、当事者たちの証言に基づき描いたものだが、ライバルであるフジテレビ側にも取材し、日本テレビをどのように見て、いかに戦ったのか、話を聞いた。

取材をしたのは、当時、編成部のトップだった重村一と山田良明。

この2人にはある共通点がある。

それは「月9」の誕生に深くかかわっていることだ。

ざっくりと言ってしまえば、「月9」の生みの親が重村なら、育ての親が山田といったような関係だろう。

では、「月9」はどのように誕生し、どのように人気ドラマ枠になっていったのだろうか。

「月9」の誕生

80年代のフジテレビの月曜夜9時の枠は、「欽ちゃん」こと萩本欽一の枠だった。

「視聴率100%男」と呼ばれテレビの王様だった萩本は、この枠で『欽ちゃんのドンとやってみよう!』をヒットさせた。

しかし、85年の休養から復帰以降、その人気に陰りが見えてきていた。

当時、フジテレビは、『オレたちひょうきん族』などに代表されるバラエティの強さに比べるとドラマは苦戦していた。

その頃のフジのドラマは、『北の国から』や「平岩弓枝ドラマシリーズ」などクオリティは高いが、ターゲットとなる視聴者層の年齢も高い、いわば名作主義。

重村は、ドラマもバラエティ同様、若い視聴者層を取り込まなければならないと考えていた。

しかし、ドラマ制作を担う第一制作部は名作主義。彼らに突然、若者向けドラマをつくれと言ってもうまくいかないのは目に見えていた。

そこで、新たに作る「月9ドラマ」枠を、第一制作から切り離し、編成主導でドラマを企画していこうと思い立った。

重村は編成の企画班にいた20代の若手たちの発想でドラマを作ってみることにした。そこで亀山千広と前田和也を呼び出した。

「今度、新しいドラマの枠を作る。だから、お前たちで企画を考えてみろ。制作は東宝や共同テレビに発注する」

出典:『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』

そうして1987年に生まれたのが『アナウンサーぷっつん物語』だった。

主演の岸本加世子と神田正輝はアナウンサー役。舞台はフジテレビ。

各話にタモリ、島田紳助、国生さゆり、本木雅弘らが番宣インタビューを受ける本人役でゲスト出演した。

亀山千広も「編成の亀山さん」として登場するような、虚実入り乱れるドラマだった。

「月9」といえば「トレンディドラマ」というイメージが強いが、実は当初はそうではなかった。

この第一作から初期数作は、いわゆる「業界ドラマ」が続いたのだ。

ヤングシナリオ大賞から生まれた才能

「月9」=トレンディドラマというイメージを作り上げたひとりが、当時、第一制作にいた山田良明だった。

山田は「月9」におけるトレンディドラマ路線第1作といわれる『君の瞳をタイホする!』を企画・プロデュースする。

そのタイトルが示す通り、刑事が主人公のドラマ。だが、いわゆる事件を解決する刑事ドラマではない。

警察を舞台にした青春ラブコメディだ。

世代交代を目指したメインキャストには陣内孝則、柳葉敏郎、浅野ゆう子が名を連ねた。

初回視聴率は、17.3%。当時としては及第点くらいの数字だったが、ドラマは徐々に評判を呼んで最終回には21.4%の高視聴率を獲得。

だが、数字以上に、のちに「トレンディドラマ」と呼ばれるフジテレビドラマの潮流を生み出した功績は大きかった。

「すべてが変わった」と山田は言う。

それまで「ドラマはお荷物」と囁かれていたが、社内の主役に躍り出たのだ。

「会社自体の見る目も変わったし、我々自身の意識も変わった。それがバブルと非常にリンクしているんですよね。本来ドラマというのは、『北の国から』のように、内に刺さるものだったんですけど、いわゆる外向きのドラマが受ける時代になったんだと思います。“えっ、こんな家に住んでいるの?”“こんな生活しているの?”みたいなものを描いていこうと。ただリアルなものよりも、“憧れ”でいい」(山田)

出典:『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』

求められているドラマが変わってきている。ならば、新しいドラマの書き手が必要不可欠だと山田は考えた。

そこで立ち上げたのが公募制の「フジテレビ・ヤングシナリオ大賞」だった。

応募資格は「自称35歳以下」のみ。審査員は本職の脚本家ではなく、現役のプロデューサーやディレクターが務めた。

「審査基準は『自分が誰とやりたいか』。だからグランプリじゃなくていいんです。最終選考に10作品ぐらい残っていて、そこまで絞り込まれてくると、それぞれに個性がある。グランプリにはならない、佳作にはならないかもしれないけれども、『いや、私はこの人とやりたい』という人とキャッチボールをしながら育てていく。そういう中からも随分作家が出てきました」(山田)

出典:『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』

第1回の大賞にはのちに『東京ラブストーリー』を書く坂元裕二、第2回大賞には『101回目のプロポーズ』などの野島伸司が輝いた。

坂元は当時、地方に住んでいたが、この受賞がきっかけとなり上京。だが、金がなかったため、山田はADの職を与え、勉強させていた。

坂元が連続ドラマの脚本家デビューするのは89年に「月9」枠で放送された『同・級・生』。いきなり「月9」デビューだったのだ。

柴門ふみ原作のドラマ化だが、実は当初別の脚本家が決まっていた。

「最初、『同・級・生』は大石静さんにお願いしていたんです。『同 ・級・生』は原作がありますから、こういうふうな構成で行きましょうということで、脚本が上がってきたんです。でも、坂元にも、1話はここの部分をやるんだけど、ちょっと書いてみないかと言って、書いてきたら、台詞が違うんですよ。光ってる。原作があるから話の内容は同じなんだけど、台詞が瑞々 しくてバカにいい。だから、こっちで行きたいって言ったら、大石さんが『ちょっと見せてよ』って言うから坂元の脚本を見せたら、『わかったわよ』って(納得してくれた)。そこから坂元が全話書きまし たからね。初めてでギリギリまで書けなくて、飛び降りて死のうと思ったことが何回かあった って後から聞きましたけど、ちゃんと書いてきた」(山田)

出典:『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』

驚くべきことにキャリア的に上の先輩脚本家と競わせる形で選ばれたのだ。

実は野島伸司の連ドラデビュー作『君が嘘をついた』も似たような経緯で起用されたという。

このように若手作家を大胆に抜擢し、育てていったのだ。

そのダイナミズム、ノリと勢いこそフジテレビの強さだった。

いまの「月9」は(というよりフジテレビ全体は)ある意味で権威になってしまった故にそうした冒険がしにくくなってしまっているのかもしれない。

「ヤングシナリオ大賞」はその後も、尾崎将也、橋部敦子、浅野妙子など数多くの脚本家を輩出した。

近年でも、社会現象になった『逃げるは恥だが役に立つ』を手がけることとなる野木亜紀子が2010年に大賞を受賞し脚本家デビューしているように、現在に至るまで新しい人材を生み出す公募として重要な役割を担っている。

現在の『コンフィデンスマンJP』もかなり挑戦的なドラマだ。

よく「フジテレビ=若者向け」と言われるが、もっと正確に言うならば、「若い(新しい)才能の積極的活用と挑戦」こそ、絶対王者として君臨していた頃のフジテレビイズムの根幹だろう。

それが失われつつある中でも、現在も残っている「月9」や「ヤングシナリオ大賞」はフジテレビの命綱のひとつではないだろうか。