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最終回で憲法第9条廃止!今こそ見たい伝説的ドラマ『お荷物小荷物』とは何か

てれびのスキマライター。テレビっ子
「大テレビドラマ博覧会」のチラシ

現在、早稲田大学・演劇博物館では「テレビの見る夢――大テレビドラマ博覧会」が開催されている。

これはその名の通り、日本のテレビドラマを創成期から現在に至るまでの歴史を博物館に展示するという試みである。

演劇博物館館長の岡室美奈子は、「これまで博物館の展覧会で日本のテレビドラマの通史が本格的に取り上げられたことはほとんどなかった」という。

その理由は様々だろう。ひとつには、テレビドラマが映画のような芸術作品としては認知されにくく、長らく消耗品として捉えられてきたという事実がある。実際、初期のドラマは録画技術を持たなかったため生放送だったし、VTRが導入されてからもテープが高額であったために一度録画したテープに上書きされるのが当たり前で、名作ドラマも含めて多くの番組が残存していない。また、著作権の壁をどう乗り越えるかという実際的な問題もあったはずだ。加えて、テレビ批評が映画や演劇のそれに比べて圧倒的に少なく、客観的評価基準を持ちにくいという事情もあったかもしれない。

出典:http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/170510.html

そうした状況の中で、岡室らのテレビドラマに対する情熱と、関係者・テレビ各局の協力のもと、この博覧会が実現したのだ。1階では「山田太一展」も同時開催されている。

2階全体を使用した博覧会には、実際のドラマ脚本はもちろん、貴重な直筆原稿やメモ、セットスケッチや、ドラマに使われた衣装などがところ狭しと展示されている。さらにその傍らには、ブラウン管テレビが並べられ、実際に『私は貝になりたい』、『花の生涯』、『傷だらけの天使』、『ムー一族』、『あまちゃん』、『トットてれび』など各年代の名作ドラマが流されている。

さらに3階の一部では「ホームドラマ」を振り返るコーナーがある。

テレビドラマはホームドラマから始まったとおり、テレビドラマの歴史にとってホームドラマは欠かせない。

その最盛期は『ありがとう』や『時間ですよ』が放送された70年代前半だろう。

中でも異色のホームドラマがあった。

70~71年に朝日放送で制作された『お荷物小荷物』である。

その映像は残念ながら最終回しか残っていない。「大テレビドラマ博覧会」ではその伝説的最終回を全編にわたって見ることができる。

いきなり、憲法第9条が廃止され、戦争状態に突入するというぶっ飛んだ最終回だ。

佐々木守による「脱ドラマ」

『お荷物小荷物』の脚本を書いたのは、『七人の刑事』、『ウルトラマン』、『怪奇大作戦』、『柔道一直線』、『おくさまは18歳』などの佐々木守。

主演は、『ひょっこりひょうたん島』の博士役などで知られ、当時マルチタレントとして人気を博していた中山千夏。

舞台は東京の下町にある滝沢運送店。男ばかりの7人家族。そこにお手伝いとして中山千夏演じる田の中菊がやってくるところからドラマは始まる。

家長は忠太郎(志村喬)、その息子が孝太郎(桑山正一)、さらにその息子、つまり忠太郎の孫が5人。それを林隆三、渡辺篤史、佐々木剛らが演じている。

この家族は徹底した男尊女卑の思想を持ち、家長の忠太郎は、日の丸と日本刀を振りかざす絶対的権力者。

実は菊は、姉の復讐を果たすために沖縄から一家にやってきたのだ。

その菊を一家の男たちは奴隷のように扱い、セクハラの限りをつくしている。

このように、ドラマの設定やストーリーに政治的メタファーがこめられているのも特徴だが、なによりもこのドラマが異色だったのは、「脱ドラマ」と呼ばれた手法だ。

たとえば、中山千夏がプロデューサーや共演者にインタビューを始めたり、セリフの言い間違い、つまりNGシーンをそのまま中断することなく、やり直したり、「セリフだから仕方ないけど、僕なら、こんなことはやらないね」と語りだし、役者本人の言葉を喋りだすこともあったという。

伝説の最終回

そして「大テレビドラマ博覧会」で上映されている最終回はその集大成のようなものだった。

冒頭、いきなり次回作の『冬の雲』の予告から始まるという人を食った展開。

サブタイトルは第18話「18・19、最終回」。ふざけている。だが、実はこのサブタイトルのままであることを後に知ることになる。

一家に対する復讐の目的を達成した菊は、一家を出ていくことを決意する。

菊はテレビに向かって言う。

「このドラマもこれでおしまいです。みなさん、さようなら」

あっさり終わるかと思いきや、孫たちが出てくる。

「オレたちのなかで、誰がいちばん好きなんだ! はっきり答えろ!」

「しょうがないな、今日で最終回なのに……」

「だったら、もう一回やればいい! 音楽! タイトル!」

そうして、ドラマのテーマソングが流れ、再びドラマが始まるのだ。

タイトルバックが終わると、わけがわからないことに、突如ニュース映像になる。

憲法第9条が廃止され徴兵制が復活したというのだ。

そして、日本が戦争状態になる。5人兄弟は兵士として戦地に送り込まれ、あっさり全員が死ぬ

めちゃくちゃだ。だけどなんだか現在に通じる話でもある。

さらに滝沢運送店の家のセットが静かに倒れ、ただのスタジオになる。そこにひとり、中山千夏が立っている。

そしてみたび場面が転換し、エピローグ的に出演者たちが役者本人として再登場。ドラマについて語りだし、他のドラマの皮肉を言ったりする。そして好評だったからと、続編の制作を発表するのだ。

ちなみに続編は「カムイ編」。主人公の中山千夏は今度はアイヌの女性を演じた。

佐々木守のテレビ論

こうした「脱ドラマ」の手法はなにも奇をてらったものではなく、佐々木守のテレビ論が根底にあると中山千夏は自著『芸能人の帽子』で佐々木自身の言葉を引用しながら解説している。

「佐々木は〔テレビ番組というものは、 決してそれが独立した作品として存在しえない〕と看破していた。『お荷物』を作るに際して〔ぼくたちは、一度も、脱「ドラマ」を作ろうと思ったことはなく、ただ一つ の「テレビ 番組」を作りたいと考えていただけ〕」だという。

佐々木の考える「テレビ」とは、「果てしのない時間の流れを、とにかく便宜的に区切っ た「番組」の総体」でしかない。つまりドラマであろうが、ニュース、バラエティ、音楽、スポーツ……、なにであろうが、それらは何の区別もない「番組」にすぎないのだ。

だからマルチタレントとして活躍していた中山千夏は、田の中菊を演じたとしても、ワイドショーなどで司会をしたり歌番組で歌う中山千夏と無縁ではいられない。

それでは、テレビにおける演出とはなにか。

それは、「テレビは基本的に、ダラダラとした時間の総体としてのドキュメンタリー」であることに立ち返ることで見えてくる。

テレビが「 素朴」にドキュメントできるものとはつまり、「うつっている人間」をドキュメントすることなのだ。それはドラマであろうとも同じだ。

であるならば、「私は沖縄出身の女中・田の中菊です」と登場するよりは、「私は中山千夏です、いろいろやってるテレビ タレントです。今回はたまたま こんな役です」と言って出てくるほうがはるかに真実だというのだ。

ならば、共演者はもとより、スタジオで働くスタッフも、そのスタジオ風景もドキュメントする。NGだって普通のことなのだからそのまま放送する。

そうやって、結果的に「脱ドラマ」と呼ばれるようになっていったのだ。

特筆すべきは、この政治的かつ実験的すぎる内容にもかかわらず、カルト的人気にとどまることなく、視聴率は毎回上昇し、最終回は過去最高(関東で29.2%、関西で36.2%)を記録。続編が作られるほど商業的にも成功したということだ。スタッフの間では、「3歳児から新左翼まで楽しめる番組」というジョークが流行するほどだったという。

中山千夏も「《お荷物小荷物》のドラマとしての意味は、観念的な前衛劇が、茶の間のテレビ視聴者にも広く受け入れられた最初で最後の例」ではないかと綴っている。

そういったものが受け入れられる時代があったのだ。

そのことはテレビドラマの自由さと可能性を示している。

そんな『お荷物小荷物』の貴重な最終回の映像をはじめ、日本のテレビドラマの豊かな多様性と深さを実感できる展示がされたテレビドラマファン必見の「テレビの見る夢――大テレビドラマ博覧会」は早稲田大学・演劇博物館で8月6日まで開催されている。

なお休館日等の詳細は公式ホームページまで。

(参考)

・『「テレビドラマ博覧会」図録』

・『夕焼けTV番長』(洋泉社)

・中山千夏:著『芸能界の帽子 アナログTV時代のタレントと芸能記事』(講談社)

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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