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ある東京芸人の肖像 安田和博のデンジャラスな“青春”

てれびのスキマライター。テレビっ子
お笑いコンビ「デンジャラス」の安田和博とノッチ (c)太田プロダクション

お笑いコンビ・デンジャラスといえば、「ノッチでーす!」というノッチの“スーパーアイドル”キャラや、そのノッチによるオバマのモノマネを思い浮かべる人が多いだろう。『ボキャブラ天国』(フジテレビ)に出演し、そのブームとともに世に出てきたイメージだ。だから、それ以前の経歴が語られることはほとんどない。

「経歴の話を『ボキャブラ』以前から始めようとすると、スタッフから『いい、いい』って言われちゃうんですよ」

そう笑う安田和博に、デビューの頃からの話を聞いた。

■劇団七曜日とラ・ママ

「青春、青春、そら売春! このバカタレが!」

それがデンジャラス結成当初にできあがった自信のギャグだった。

彼らの初舞台は、渋谷ラ・ママで行われていた「ラ・ママ新人コント大会」。観客から「つまらない」と5人(現在は10人)手が挙がると強制終了となるコーナー「コーラスライン」に出場した。

だが、2回とも、そのギャグの前に手が挙がってしまう。このギャグまで行けば、お客さんに笑ってもらえるはず。そう考えた2人は、3回目に出場したときは、それに至る“つかみ”の前フリの部分を一部削り、早めにそのギャグを言うことに決めた。

「そしたらそこまでの“つかみ”が初めてウケたんですよ。これはイケると思って、それで『青春、青春、そら売春! このバカタレが』って言ったらシーーンとして手が2~30人ぐらい、ばばばばって挙がって、『はい、ありがとうございましたー』って終わっちゃったんです。もうお先真っ暗だと思った。自信のギャグがそうなっちゃって、来月からどうしようって。それはめっちゃくちゃ覚えてますね、あんなに嫌われるかって(苦笑)」

もともと安田は郵便局員だった。薄暗い部屋で慣れない郵便物の区分けをやっていると、隣では先輩がもの凄い早さでそれをやっている。「ああ、俺は将来こういう風になるのか」と思った。休憩中になると彼らが話す話題はパチンコやギャンブルの話ばかり。いまでこそ競馬が好きな安田だが、19歳だった彼は「夢がないなあ……」と暗い気持ちになった。

そんなとき、手に取ったのが『ぴあ』。とんねるずに憧れていた安田は、劇団員募集の広告を目にする。渡辺正行がタバコを吸っているポーズの写真とともに「劇団七曜日・劇団員募集!」とある。これを受けてみようと思った。

この頃はまだ東京にNSCなどのお笑い養成所はなく、事務所のオーディションなどもなかった。誰かの弟子になるというのも嫌だった。一方で、当時は「小劇場ブーム」。スーパー・エキセントリック・シアター(SET)や東京ヴォードヴィルショーなど、お笑いと接点のある劇団が注目されていた。だから、渡辺正行が関係する劇団に入ればお笑い芸人への道が開けると考えたのだ。安田はオーディションに合格。郵便局を辞め、劇団員となった。20歳の頃だった。

「劇団七曜日」は、1984年に石井光三らが旗揚げ。安田が入った80年代後半は、渡辺正行が作・演出を務めていた。当時の中心メンバーは近藤芳正や菅原大吉、新納敏正。そのときの安田にとっては『ひょうきん予備校』(フジテレビ)などでちょっと見たことがある程度の存在だった。

「『このメンツか、チョロいな』って思いましたね(笑)。みんなそういう風に言うじゃないですか、若い頃って」

オーディションには50人くらいが合格したが、連日の深夜まで続く稽古に、初めての公演が終わる頃には、男は3人だけになっていた。

その中にノッチがいた。

彼らは自然とコンビを組むようになった。88年9月頃のことだ。

「劇団七曜日」はラ・ママ新人コント大会を裏で支えるスタッフでもあった。

舞台の衝立てとして使うパネルを準備したり、イスを並べたりする。だから、安田たちが初めて体験したお笑いライブは裏方としてだった。

「いろんな人がいるなって思いましたね。 チャーリー東京さんとかは老人ホームの余興みたいな感じだったし、『スーダラ節』をただ踊るだけのジーコ内山さんだったり、『コーラスライン』には本当にキテレツな人たちがいました。でも『1本ネタ』の人たちは違うんですよね。その頃は、ウッチャンナンチャン、松竹梅、ピンクの電話がだいたい後半の3組だったんですけど、前半どんなに重いお客さんでも、コーラスラインが終わって、松竹梅がネタをやると、ドーンとハネる。やっぱりスゴいなって思いましたね」

そうした「1本ネタ」に出場している人たちは必ずといっていいほど、テレビのお笑い番組に出演していた。だから、目標が分かりやすかったという。

■渡辺正行の教えとライバルの出現

コンビを組んだデンジャラスは、ラ・ママの「ネタ見せ」に参加する。そのネタ見せから出場者が選抜されるのだ。

自分のネタを終えると、その部屋でそのまま他の組のネタを見る。安田はそれを見て、面白ければ普通に笑っていた。そんな姿を見て渡辺正行は激怒した。

「お前ら何笑ってんだ」

「え、何ですか?」

お前ら、ライバルだろ。何、ライバルのことをヘラヘラ笑ってんだ

渡辺正行にとってデンジャラスは“身内”みたいなもの。だからなのだろう、特に厳しく接した。

「『他の芸人と口きくな』みたいなこと言われましたね。『ライバルなんだから普通に話しても、何かヒントを与えたらどうするんだ』って。その教えを守ってたから、後々聞いたらデンジャラスは誰とも喋らない閉鎖的な人間だみたいに周りに思われてて(笑)」

当初は安田がボケ、ノッチがツッコミだったが、渡辺正行から、ノッチの醸し出す可笑しみを活かすためノッチをボケにしたほうがいいとアドバイスされ、入れ替えた。

だから「このバカタレが」の部分だけが、安田がボケだった頃の名残だという。

このギャグも最初は「シーーン」と引かれたが、回を追うごとにウケだした。「コーラスライン」では手が挙がらなくなり、ようやく2年ほどかかって「1本ネタ」に昇格する。

だが、そんな苦労を尻目に、現在、映画・ドラマに欠かせない名脇役となった阪田マサノブが組んでいた新進気鋭のコンビ・Z-BEAMが「コーラスライン」を通らず、いきなり「1本ネタ」でラ・ママデビューを果たす。

それに対し、ノッチが異常なほどライバル意識をむき出しにしていた。実は、ノッチは「劇団七曜日」に入る前、東京ヴォードヴィルショーの研究生だった。そしてZ-BEAMの2人はその同期だったのだ。

「俺らがコーラスラインで苦しんでたときに、いきなり抜かれて1本ネタで出場したから、ノッチは相当腹立ったみたいで、ギラギラしてましたよ。『あいつらに絶対勝つ』って。でもめちゃくちゃウケてて、3回くらい出た頃にはもうスゴい人気でした。スズナリで単独ライブやって会場の前にぶわーって行列になってましたね。僕らがやっと1本ネタになって立場は並んでも、人気は全然違った」

■立ちはだかるテレビの壁

そんな頃、日本テレビで『LIVE笑ME!!』というネタ番組が始まった。出場芸人のうち、1位が3ポイント、2位が2ポイントを得る形式で10ポイント貯まるとチャンピオンとなる。それまで、SET隊、爆笑問題、テンションが王者となっていた。

そしてまたもデンジャラスの前に立ちはだかったのがZ-BEAMだった。4代目の王者にZ-BEAMが輝いたのだ。

デンジャラスも挑むが「バカタレが!」のギャグをやるとやはり「シーーン」と客が引いてしまう。だが、「元気マン」というヒーローもののネタが当たり勝ち抜けるようになった。

いよいよ王手がかかったところで、司会の高田純次と山瀬まみが無情の宣告を下す。システムが変わり、王者になるためには20ポイント必要になったというのだ。さらに、18ポイントまでポイントを積み重ね、遂に次回、王者に挑戦という時に、番組が終了してしまったのだ。

「いま思えば、ああいうところでチャンピオンになれなかったっていうのがダメなんでしょうね。だって爆笑問題さんとかはきっちり一発で決めてチャンピオンになってますからね」

デンジャラスは当時、渡辺正行が立ち上げた会社「なべや」所属の芸人だった。だが、いわゆるお笑いのプロダクションではない。劇団七曜日の劇団員として芝居の公演にも出演しなければならない。そんな中途半端な立場を変えたいと思い「なべや」を離れることを決意する。半年間、ライブを含め活動をしないことを条件にフリーとなった。

『LIVE笑ME!!』をきっかけに多くの芸能事務所の関係者に知られていたため、すぐにスカウトが来るものだと思っていたが、現実はそんなに甘いものではなかった。どこからも話は来ず、半年が過ぎようとしていた。

その間に、同期のバカルディ(現・さまぁ~ず)が急浮上する。ラ・ママ時代はともに「コーラスライン」で切磋琢磨していた仲。

そんな彼らが、『ナベさんミッちゃんのまねまね天国!』(テレビ東京)でチャンピオンになるのだ。司会は皮肉にも渡辺正行だった。

活動解禁後、デンジャラスはツテを頼って太田プロライブに参加。2度目の出演を機に太田プロ所属となった。

『赤坂お笑いオールスターライブ』(TBS)や『ショージに目あり!』(日本テレビ)でもバカルディ、ホンジャマカ、デンジャラスは中心メンバーとしてよく一緒になった。

だが、そこでもデンジャラスは合同コントなどに馴染めず苦しんだ。

「(『ショージに目あり!』の)台本見てもだんだん台詞がなくなっていくし。これは厳しいなあって思いましたね。それ終わってから、また仕事が何もなくなっちゃった」

その後も、『天才どんぐり連合』(日本テレビ)などで高評価は得ても浮上するきっかけは掴めなかった。

「僕ら、乗っかっていかないんですよね。一個手応えがあるものをやっても、それが続いて積み重ねにならないっていうのがすごく多い。『LIVE笑ME!!』は僕らにとってはいわゆる賞レースだったんです。チャンピオンにはなれなかったけど、そこそこ注目をされた。けど、その後は全然何もない。とんねるずさんが『コラーッ!とんねるず 』をやってた枠で、バカルディたちと『ショージに目あり!』をやったけど、その後何もない。スターになっていく人は、そういうのが乗っかってステップアップしていきますから、違いますよね」

一方で、ホンジャマカとバカルディはフジテレビ夜10時台のユニットコント番組『大石恵三』がスタート。自分たちの冠番組をスタートさせていた。

■“スーパーアイドル”ノッチの誕生

ある日、事務所から「歩合制」に変えると宣告があった。それまで給料制だった彼らは「ああ、クビだ」と思った。

そんなときに始まったのが、『ボキャブラ天国』だった。最初は「あんなのダジャレだろ?」と眼中になかった。だが、ゲスト的に呼ばれ出てみると、ネタはどんズベり地獄のような空気になってしまったという。それでまた距離を取った。

しかし、歩合制になってしまった危機感や、当時やっていたラジオのリスナーたちの「出ないんですか?」という声に押され、番組が芸人による「ヒットパレード」だけになったタイミングで再び参加することにした。今度はゲストという扱いではない。他の後輩たちと同じ立場だ。どのようなネタがウケるかしっかり研究してネタ収録に臨んだ。

その一本目のネタがたまたま「スーパーアイドル」ノッチに安田がインタビューするという形式のものだった。

「それがスタッフ大爆笑だったんです。一回、収録が止まっちゃうぐらいの。この段階ではスタジオ収録に呼ばれるかどうか分かんないんですけど、すぐに連絡があって。スタジオ収録に行くと、ディレクターさんから『(スーパーアイドルの)ノッチのキャラで通してくれ』と。意味わからなかったけど、言われるまま『ノッチです!』とやって、僕も『バカヤロウ』とかツッコまずに肯定して、ボケを重ねるように『あれ、みなさんノッチのことをご存じないんですか?』みたいな感じでやったら、お客さんより前にまず芸人たちがゲラゲラ笑いだしたんです。僕らのことは知ってるけど、ほとんどが後輩。で、僕らは渡辺さんの教えを守ってたんで、“交流を持たない人たち”だっていうイメージがあったからフリが効いてたんですかね?」

尖っているイメージがあった先輩が、いきなりイジられキャラとなったのだ。その意外性に後輩たちは笑い転げた。するとすぐにその笑いは観客にも伝播し、一気に人気芸人の仲間入りを果たした。

本当に世間に知られたんだなっていうのはちょっと思いましたね。ライブやお笑いの番組の中でどれだけ笑いを取っても、街では誰も知らない。でも、『ボキャブラ』は社会現象でしたからね」

■再び立ったラ・ママの舞台

最初にお笑い芸人としてもらったギャラはラ・ママ新人コント大会に出た「コーラスライン」。2人で500円だった。

そのギャラで2人はタバコを買った。ノッチはラーク、安田はマイルドセブン。

「カッコつけてるみたいに思われるんですけど、当時は本当に『金じゃない』と思ってました。何を言ってるんだ、甘ったれんなって、いまは思うんですけど、本気でお金じゃなくてやってるんだと思ってましたから。だから500円とか、給料安いとか心底なんとも思ってなかったですね」

それから数十年が経った。

「なべや」から巣立ったことで出場していなかった「ラ・ママ新人コント大会」に、彼らは約20年ぶりに出場した。

それは「300回記念大会」。

記念の大会ということで全5公演に、ピンクの電話、爆笑問題、バナナマンら“ラ・ママ出身”の豪華なメンバーが揃った。その中でデンジャラスは、あの時と同じ「コーラスライン」に立ったのだ。

「青春、青春、そら売春! このバカタレが!」

かつて客を「シーーン」と引かせたそのギャグで、ラ・ママを大爆笑に包み込んだ。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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