プレ金は根本から見直しを 経団連だけでなく、経産省も敬虔な反省を

いま振り返ると、寒面白いプレ金スタート時の光景(写真:つのだよしお/アフロ)

経団連会長の榊原氏は11日の記者会見で、「プレミアムフライデー(プレ金)」の見直しを検討する考えを明らかにした。現状、月末に行われているこの取り組みを月初の金曜日にするなど、実施日の変更を視野にいれているという。まだ、経団連のHPには会見のログが掲載されていないが、読売新聞などが報じており、ヤフートピックスにも載っていた。

プレ金「月初にという声強い」…経団連会長(読売新聞) - Yahoo!ニュース

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170911-00050047-yom-bus_all

上手くいっていなかったことを認め、見直しをはかるのは評価できる。いまや、なかったことになっているかのような「ゆう活」よりはよっぽどいい。しかし、もともとこの企画は筋が悪くなかったか。さらには、どこまで根本に踏み込んで見直しをするのか。論点はここにある。

そもそも月末に実施することは無理があることは、最初から明らかだったのではないか。なぜ、そのような方針になってしまったのか。経済団体なのだから、日本のビジネスの常識など理解しているはずだ。もちろん、この取り組みによって月末が過度に忙しくなるという日本の商慣習にまで踏み込む覚悟があるのなら話は違う。ただ、締め日の関係などもあり、難易度は高いことは明らかだろう。月の終わりは四半期末、半期末、年度末にもなり得る。逆に最初からこの時期にすることによって、成果をうやむやにする意図が会ったのではないかとすら思えてしまう。

この施策は根本的な矛盾を抱えている。消費喚起策なのか、働き方改革の一環なのか。その両方を追うがゆえに中途半端な企画になってしまったのだ。その消費喚起にしても、働き方改革にしても、根本的な問題に踏み込んでいないがゆえに広がらないのではないか。前者は、可処分所得を増やすことであり、後者は定時に帰ることができるような会社と社会にすることである。

拙著『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)や、関連する論考で何度もふれたが、日本人がなぜ残業をするのかというと、残業をすることが合理的な社会と会社になってしまっているからである。仕事の絶対量が多く、突発的な仕事が発生する(それを請けてしまっている)、神対応をよしとする過剰なサービスレベル、メンバーシップ型雇用など、労働社会、雇用慣行の副産物として残業は生まれてしまう。プレミアムフライデー(プレ金)もその問題をそのまま反映したものになっていないか。

さらには大企業を中心とした経団連が主導したものであるがゆえに、穿った見方をするならば、「大企業貴族」たちのイベントになってしまった感はないか。気持ちよく消費するのも、働き方改革が進むのも(改革には予算が必要で、人事・総務・ITそれぞれの連携と、それに伴う投資が必要なのだ)、経団連加盟の大企業ならではだ。大企業と中堅・中小企業の格差を可視化する施策ではなかったか。

経団連だけでなく、経産省も猛省するべきである。なぜ、このように中学生でも分かるようなことを、国をあげてやったのか。国民を疲弊させる政策、施策は愚策である。我々の血税をなんだと思っているのか。このような中途半端な政策が上手くいかないことなど、推してシルベスター・スタローンなのだ(いつも檄文調で厳しいトーンで書くから少しは和ませるための筆者のいじらしい努力だ)。

月初への時期の見直しというが、そもそも半年経過するのだから、何がよくて、何が駄目だったのか、振り返りが必要だ。プレミアムフライデー、プレ金なる美名を連呼するだけでは、国民は動かない。普遍性を装った美しい言葉で手懐けようとしても無駄、無駄、無駄だ。

今回の見直しの姿勢は評価するが、継続するならば、それ以外にも見直し、総括するべきではないか。だいたい、経団連企業の社員ですら、いまさら口にするのも恥ずかしい施策はいかがなものか。経団連や経産省の関係者が幸せなプレ金をおくっているのかどうかさえ、気になるところだ。新聞で報じられる各社の取り組みにもやらされ感を感じてしまう。省エネスーツを着続けた、最近亡くなった羽田孜のような気の毒な姿はもう見たくない。