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<朝ドラ「エール」総括>「ああ、寂寞。私の心に空洞ができた」ドラマで描かれなかった古関裕而のその後

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(提供:hide/イメージマート)

朝ドラ「エール」がついに最終回を迎えました。

思えば、本作は苦難の連続でした。はじまって早々にコロナ禍に襲われ、出演者からも犠牲者を出し、撮影中断と放送休止を余儀なくされた挙げ句、再開こそされたものの、2週間分がカットされ、さらには、おそらく相乗効果を狙っていたであろう、東京オリンピックまで延期となってしまいました。

ですので、無事に終わったことにホッとしているひとも多いでしょう。

■「私に意欲を湧かせてくれる人は現れなかった。私の生活は次第に単調になっていった」

それにしても戦後篇は、短縮されたことを考慮しても、かなり駆け足でした。ドラマで描かれなかった点を含め、「オリンピック・マーチ」以降のことも補足しておきましょう。というのも、東京五輪は1964年ですが、主人公のモデルとなった古関裕而が亡くなったのは1989年と、だいぶさきのことだからです。

まず、1973年4月の、菊田一夫の死去です。

これは、古関の音楽活動に計り知れない影響を与えました。菊田は、戦後の古関にとって、なくてはならない存在だったからです。「鐘の鳴る丘」「君の名は」などのラジオドラマも、「イヨマンテの夜」「フランチェスカの鐘」などの歌謡曲も、東宝で上映された一連の演劇も、彼なしではありえませんでした。

そんな菊田を失ったことで、古関は一種の虚脱状態に陥ってしまいました。自伝のその箇所は、哀切きわまります。

私より一歳上だが、互いにまだ六十半ば。あまり病状がよくなさそうに見えたが、まさか早々に逝ってしまうとは全く考えられなかった。

ああ、寂寞。私の心に空洞ができた。それが日増しに大きくなっていく。オペラもミュージカルも、舞台音楽も、何もかも――やりたいと思っていたものが、みんなできなくなってしまった。そしてこの時、菊田さんが幕を下ろしたのなら、私もそうしようと思った。

ややしばらくして、また新しい作曲をしていこうとひそかに決心してみたが、しかし私に意欲を湧かせてくれる人は現れなかった。私の生活は次第に単調になっていった。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

その言に違わず、あれだけ猛烈で多産だった古関の音楽活動は、これを機にめっきり減っていくのです。

■「いや、気さくなかたでしてねェ。それにダジャレがお得意で」

とはいえ、菊田を失って以降の古関の姿こそ、もっとも当時の人々の記憶に残るものでした。なぜなら古関は、1972年より、フジテレビ系列の「オールスター家族対抗歌合戦」に出演し、萩本欽一司会のもとで審査委員長を務めていたからです。そしてこのテレビ出演こそ、「古関・その後」の2番目の点です。

古関と聞いて、「あの、テレビに出ていた、優しそうなおじいちゃん」と思うひとも多いでしょう。当時の雑誌にも、まさにそのままの印象が記録されています。

柔和な目、けっして出場者に悪印象を抱かせない、ものわかりのいいおじいちゃん。

『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)で、審査委員長をつとめる古関裕而さん(68)の印象は、まずこんなところだ。

「いや、気さくなかたでしてねェ。それにダジャレがお得意で、しょっちゅう周囲を笑わせてばかりいます。

われわれはみんな、先生のことを“グランパ”と呼んでいるんですよ」(浜口ディレクター)

出典:「古関裕而さん68歳の知られざる一面」『週刊平凡』1976年1月22日号

同番組では、グランドチャンピオン大会の優勝者家族をヨーロッパツアーに招待していました。古関もそれに帯同し、ロンドン、パリ、アムステルダム、ローマ、ジェノヴァ、トリノなどを巡っています。

1974年のツアーでは、ロンドンのホテルで、「やあ! 先生」と日本人に声をかけられたことも。古関は誰だかわからず困りましたが、相手は、社歌を作った三協アルミの社員だったそうです。古関は海外で声をかけられるほど、有名人になっていたのです。

■「車に取りすがるようなそのお姿に、参会者一同胸をしめつけられる思い」

3番目に、最愛の妻・金子との別れについても触れなければなりません。それは、1980年7月のことでした。金子はかねてより乳癌で闘病中でしたが、薬石効なく、68歳で息を引き取ったのです。

1980年代は、別れの多い時期でもありました。佐伯孝夫、伊藤久男、堀内敬三、霧島昇、米山正夫、宮田東峰など、昭和歌謡を彩る面々がつぎつぎに世を去っていったのです。そのなかでも、金子の死は、古関にもっともショックを与えました。

葬儀のときの様子が、いくつか証言として残されています。

福商同級生の宮尾利雄によると、葬儀後の挨拶で古関は、消え入りそうな声でただ一言「大変お世話になりました」と述べただけであったとのこと。妻の死による精神的打撃があまりにひどく、今後日常生活ができるのかと宮尾は危ぶんだという。

出典:齋藤秀隆『古関裕而物語』

近江俊郎、水の江滝子、その他各界の名士が居並ぶ中でいよいよ出棺となり、その車が静々とすべり出すやいなや、裕而氏はしゃくりあげながら後を追われた。車に取りすがるようなそのお姿に、参会者一同胸をしめつけられる思いで、かくまで愛された夫人に軽い羨望の念さえ抱いたものだった。

出典:石川静恵「赤でんわ」『読売新聞』1989年9月11日

その古関も、1985年3月、心不全で倒れて入退院をくり返すようになり、1989年8月、脳梗塞により亡くなりました。80歳になって間もないときのことでした。

なお、山田耕筰との関係はすでに述べたとおりです。山田が古関を意識していたというより、古関が一方的に山田を意識していたというのが事実でしょう。山田は優秀な弟子をたくさんもち、楽壇で圧倒的な影響力を誇っていましたので、古関ひとりに拘泥するなど、ありえなかったはずです。ドラマで描かれたような「最期の手紙」も、現在のところ、確認されていません。

■最大の注目点・「エール」は戦争を描けたか?

では最後に、かんたんに「エール」全体の総括をしておきます。

本作の核心部分はなんだったでしょうか。いうまでなく、戦争(責任)の描き方です。古関裕而を主人公のモデルとする以上、この部分は放送開始前から注目されていました。

そして本作は、それに応えるように、異例の4週間にわたって戦時下篇を続け、戦後篇でも戦争責任に苛まれる主人公の姿を描きました。史実にかなり寄り添った本作にあって、大幅な改変がみられたのもこの箇所です。

これまでの拙稿で触れてきたとおり、たしかに古関は「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」などの軍歌を作りました。ビルマの前線におもむいたこともありました。赤紙が来たのも事実です。しかし、召集解除で負い目を抱き、軍歌の作曲にのめり込み、さらには恩師の戦死をビルマで目撃したことにより、みずからの戦争責任に苛まれ、戦後しばらく作曲もできなかったという展開は、完全な創作なのです。

では、こうした改変により、「エール」は戦争を物語的にうまく描けたのでしょうか。いっぽうでは、悲惨な歴史にしっかり向き合ったようにもみえます。そのいっぽうでは、軍歌という言葉をかたくなに拒んだように、根本的な部分からは逃げたようにもみえます。

■戦争という難しい「食材」にマッチしなかった

筆者の結論は、「エール」は戦争を描こうとしたが、うまく物語に落とし込めなかった、というものです。

そもそも「エール」は、直接的で、わかりやすく、感動的な小話の連続で成り立っています。兄弟の仲直りもそうですし、球児の挫折と屈服もそうです。あえて例えるならば、それは即席という意味でインスタント麺のようなものでした。

これはかならずしも悪いといっているのではありません。わかりやすくおいしいインスタント麺は、偉大な発明だからです。とはいえ、戦争という、本来ならば熟練のシェフがコース料理で取り組むべき、きわめて難しい食材にはマッチしなかった。そういうことなのかなと思います。

戦争に協力した。大量の軍歌を作った。しかし、戦後は大きな挫折もなく、すぐ平和の曲を作り、成功していった。古関に限らず、多くの文化人が当時このような人生をたどったのですが、それはあまりに生々しく、その後の感動を削ぎかねず、「エール」のフォーマットに合致しなかったのでしょう。

そのため、戦争協力→現実に直面→反省という、個々のエピソードとしては劇的ながらも(とくに俳優の演技はすばらしいものがありました)、全体としては単純で、史実からも遊離した展開になったのだと考えられます。

もちろん、「エール」は架空の話です。ですから、どのように改変しようが自由だという意見もあるかもしれません。とはいえ、本作は全体として史実におんぶにだっこ状態でした。だからこそ、戦争にも正面から向き合わざるをえなくなり、あれだけ戦時下篇が長く、重くなったのでしょう。もう少し物語に独自の要素を入れていれば、また違った戦争描写もありえたのかもしれません。

■「エンタメ→プロパガンダ」という歴史の教訓をどう生かすか

もっともこれ以上は、歴史家の役割でもあります。

今回のドラマは、図らずも生々しい史実を浮き立たせました。ほかの主要なエピソードはドラマ化できたのに、戦争の部分だけはできなかった。それだけ、一般化しにくい、タブーのような要素がそこにあったのでしょう。戦争(協力)と音楽、ひいては政治と文化の関係は、それだけ厄介というわけです。

これは現在にも通じる話です。今日の視点から過去を裁いていい気になっている場合ではありません。戦時下の文化人の生態を知り、それを今後どのように教訓として生かしていくのか。問われているのは、われわれのほうなのです。

それは少なくとも、「エール」の大団円を受けて、明るく楽しい古関メロディーだけ心にとどめて、「終わりよければすべてヨシ」としないことでしょう。本連載で「戦時歌謡」という言葉を一貫して批判してきた理由も、まさにここにあります。

われわれが日々消費しているエンタメが、ある日を境に、プロパガンダになってしまうかもしれない。そういう厄介な問題を心のどこかで意識しておくこと。これが大切です。「エール」の、ゴツゴツとして、前後の文脈から突出した、消化しづらいが、それゆえに記憶に残る戦時下篇は、そのことに気付かせてくれたという点で、逆説的ながら、たいへん意味のある試みだったと思うのです。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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