ついに最終週となった、朝ドラ「エール」。大方の予想どおり、やはり最後は「オリンピック・マーチ」で締めるようです。言わずと知れた、1964年東京大会の入場行進曲であり、古関裕而の代表曲です。

ドラマではまた、「戦時歌謡」の作曲者じゃないかという指摘もされていましたが、本当にそんなことはあったのでしょうか。今回はその真相を解説してみましょう。

■「外出先から父が大変興奮して戻って参り、「東京オリンピックの行進曲を書くことになったよ」」

オリンピック東京大会組織委員会とNHKより、古関が入場行進曲の作曲依頼を受けたのは、1963年2月のことでした。それは、ドラマと違い、自宅の外だったようです。長女の染谷雅子氏が、そのときの様子をつぎのように証言しています。

たまたま私が実家に来ていた時のことですが、外出先から父が大変興奮して戻って参り、「東京オリンピックの行進曲を書くことになったよ」と母と私に話しました。行進曲を依頼されたという喜びに、父のマーチに対する自信と意欲を、つぶさに感じさせられたのです。

出典:齋藤秀隆『古関裕而物語』

古関は落ち着いたひとだったので、「大変興奮」とは、よほど嬉しかったのでしょう。

では、古関が選ばれた理由はなんだったのでしょうか。結論から言えば、詳しい事情はわかりません。

ただ、(1)スポーツの音楽に多大な実績があったこと、(2)こういう公式の曲でかならず声のかかる、山田耕筰が70代後半と高齢だったこと、この2つは無視できないでしょう。ちなみに山田は、五輪の翌年、1965年に亡くなります。

■「オリンピック讃歌」を編曲し、IOCを驚かせる

また、もうひとつ付け加えるとすれば、「オリンピック讃歌」を編曲したことがあげられます。

1958年、IOCの総会(国際オリンピック委員会)が東京ではじめて開かれました。JOC(日本オリンピック委員会)はこのとき、一計を案じました。第1回アテネ五輪で使われて、その後長らく行方不明だった幻の曲「オリンピック讃歌」を、日本のオーケストラで蘇演して、IOCの面々を驚かしてやろうとしたのです。

ここで白羽の矢が立ったのが古関でした。「オリンピック讃歌」はピアノ譜しか見つかっていなかったので、それをオーケストラ譜に編曲してほしい。そう古関は依頼されたのです。この目論見は大成功、IOCの面々は東洋で聞くギリシャの響きに大いに感銘を受けました。

おそらく、このような古関の功績が、「オリンピック・マーチ」を依頼するに際しても考慮されたのではないかと思われます。

■「曲の最後に君が代の後半のメロディーを入れました」「父の愛国心を感じ感動を覚えました」

いずれにせよ、古関は「オリンピック・マーチ」の作曲に取り掛かります。そして、せっかくの東京オリンピックなので、そのメロディーに「日本的なもの」を入れようと考えます。古関の回想に耳を傾けてみましょう。

マーチは私には書きなれたジャンルなのですが、日本の東京でやるオリンピックなので、日本的な感じを出すのに苦心しました。しかし日本的というと、雅楽風、民謡風になりがちなのですが、それでは若い人の祭典向きではないので、それを捨て私の楽想のわくままに書いたのです。ただ、曲の最後に君が代の後半のメロディーを入れましたけれど。

出典:村松喬「つくった甲斐があった」『サンデー毎日』1964年11月1日号

なんと、「オリンピック・マーチ」には、「君が代」のメロディーが使われているというのです。「君が代」は、雅楽師によって作曲されたものですから、「日本的な感じ」を出すにはぴったりだったと言えるでしょう。

こうして「オリンピック・マーチ」は、1963年6月に完成しました。前出の長女は、この工夫に「父の愛国心」を感じたと述べています。

「この曲には苦心したが、会心の作だ」と父は言っておりました。私は曲の最後に「君が代」のメロディーを上手に取り入れてしめくくってある事に、父の愛国心を感じ感動を覚えました。現在でも各地の小・中学校の運動会で使われていると伺い、とても嬉しく思っております。

出典:齋藤前掲書

多作の古関は、インタビューで「好きな自作は何か」と訊かれることが多くありました。その回答はいつも微妙に異なるものの、この「オリンピック・マーチ」はほとんどかならず入っていました。「会心の作」というのはほんとうだったのでしょう。

古関はしばしば「日本のスーザ」「日本のマーチ王」などといわれます。とはいえ、マーチで歌謡曲ほど有名な曲を残しているわけではありません。にもかかわらずこのように呼ばれるのは、「オリンピック・マーチ」の影響がいかに大きかったかのあらわれでしょう。このことが、自他ともにこの曲が古関の代表曲としてあげられるゆえんなのです。