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<朝ドラ「エール」と史実>「訓練で成績上位」「民族のため最善」“音のモデル”は戦時下をどう過ごした?

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:ロイター/アフロ)

太平洋戦争の時代に入った朝ドラ「エール」。今週は、ヒロインの音が重い腰を上げて、音楽挺身隊に参加します。音楽挺身隊についてはまた詳しく解説しますが、モデルとなった古関裕而の妻・金子もこの団体に参加して、工場などの慰問に加わっていたのでしょうか。

■「日頃の訓練も世田谷区で1、2の成績だった」

資料をみる限り、そのような事実はなかったようです。ただ、金子は、別の場面で「大活躍」していました。古関裕而は、自伝でその様子を詳しく記しています。1945年3月10日の東京大空襲のときのことです。

防空群長の妻は隣組を守るために大活躍。日頃の訓練も世田谷区で1、2の成績だったので、隣組に落ちた焼夷弾は不発弾もあったが、たちまち各自協力して消火し、我が家は焼けなかった。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

この証言を見るかぎり、金子はドラマの音と違って、隣組などの集まりにも熱心に参加していたようです。金子は、古関にファンレターを送って結婚にいたるきっかけを作り、戦後は株式投資で大成功して「百戦錬磨の利殖マダム」と金融メディアにもてはやされるほど活動的な女性でしたから、戦時下もその例に漏れなかったということでしょう。

当の本人も、戦後、このように振り返っています。

私自身、自分たちの望んだ戦争でなくても、負ければ大変!と、夫を戦地に4回送り、一度は終戦間近に横須賀海兵団に取られています。当時2児を抱えておりました。生命を賭け、自分の全生活の危険も、民族のために考慮の上に最善をつくしました。

出典:古関金子「新国際空港問題」『地の塩の箱』No.97

「戦地に4回」というのは、戦地への慰問などを含めているのでしょう。慰問の詳細についても、また稿を改めて解説したいと思います。

■「それが千万言にもまさる愛情として私の全身を包み…」

もっとも、元気だった金子も、戦争末期には疎開先の福島で腸チフスにかかり、一時重態になることもありました。幸い、古関の地元だけに知己も多く、薬品や食料もあったので、窮地を脱しました。

このとき、印象的なエピソードが残っています。ある日、福島市に空襲警報が鳴りました。深夜のことです。入院先の病院の部屋は2階。防空壕に避難するため、真っ暗のなか、階段を降りなければなりませんでした。看病にあたっていた古関は、金子を背負って、「1、2、3」と数えながら、階段を降りていきました。

金子が「どうして数えるの」と訊くと、「前から何段あるか覚えておいたから」との答え。金子は、これに「胸がきゅっと熱くなりました」。古関が、この日のために、階段の数を数えておいてくれたことがわかったからです。

無気味なまでに静まりかえった闇の中に、イチ、ニイ、サンと数える主人の声と、それへの伴奏のようにコトッ、コトッと響く足音、それが千万言にもまさる愛情として私の全身を包み、主人の背に涙があとからあとからと流れ落ちるのでした。

出典:古関金子「やさしいパパで、親切な夫」『主婦と生活』8巻13号

これは名エピソードだと思うのですが、疎開のシーンまで描けず、ドラマでは採用されないかもしれません。

いずれにせよ、金子が戦時下に声楽で大々的に国家に奉仕したという記録は残っていません。声楽家としての活動は、むしろ戦後にこそ求められます。それはまた戦後篇にあわせてご紹介できればと思います。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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