セナ・プロストの対決、ホンダF1の活躍に熱狂した平成元年【平成のモータースポーツ(1)】

1989年ベルギーGPを走るアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)(写真:Action Images/アフロ)

平成が間も無く終わりを告げようとしている。そこで「平成のモータースポーツ」と題し、モータースポーツ界の30年に渡る平成のトピックスを振り返っていこう。僅か30年で栄枯盛衰を繰り返したモータースポーツ。その歴史を振り返り、現在のモータースポーツに照らし合わせることで、次の時代のモータースポーツの未来像を探って行きたい。まず第1弾は平成元年(1989年)の「F1世界選手権」を見ていこう。

日本にF1ブーム到来!

平成という新しい時代が幕を開け、日本が空前のバブル景気に踊っていたのが平成元年(1989年)。日経平均株価は3万円台で上昇を続け、ついに年末には史上最高値の3万8957円をつけることになった。そんな好景気の波に乗り、隆盛を極めたのがモータースポーツ。特に「F1世界選手権」は溢れ出るジャパンマネーの流入もあり、豪華絢爛の時代を迎えていく。いわゆる「F1ブーム」が加速していったのだ。

F1を取り巻く時代背景を振り返ってみよう。ホンダがエンジンサプライヤーとしてF1に復帰したのが昭和58年(1983年)。そして、昭和63年(1987年)には中嶋悟(なかじま・さとる)が日本人で初めてF1にフル参戦を果たし、鈴鹿サーキット(三重県)が「F1日本グランプリ」を開催した。

1987年初開催されたF1日本グランプリ【写真:MOBLITYLAND】
1987年初開催されたF1日本グランプリ【写真:MOBLITYLAND】

そして、フジテレビがF1の全戦中継を始めたのも1987年のことだ。それ以前のF1は録画によるダイジェスト番組による放送であり、日本開催も1977年(富士スピードウェイ)を最後に休止となっていたため、フジテレビのF1中継開始は画期的だった。さらに、1989年からは当時プロレス実況、司会者として知られた古舘伊知郎が実況に加わり、「音速の貴公子、セナ」などの名フレーズと共にF1はモータースポーツファンのみならず、お茶の間に浸透していった時代である。

ホンダの活躍、ジャパンマネー流入

F1が新しいスポーツとして世間に受け入れられ始めたのに呼応するかのように、F1にはバブルに後押しされたジャパンマネーが流入した。その影響もあり、1989年の「F1世界選手権」シリーズには20チーム、39台ものマシンがエントリー。当時は1チーム、1台のみでのエントリーも可能であり、現在の10チーム20台と比べると大きく違う。

1989年はエンジンの規定が変更され、ターボエンジンが禁止となり、全車が3500ccのNA(自然吸気)エンジン使用を義務付けられた年である。当時は今のような複雑なパワーユニット(ハイブリッド)ではなく、排気量が3500ccでシリンダー数は自由であったため、V8、V10、V12など様々なタイプのエンジンがF1に搭載された。また、プライベートチームはフォードV8(DFR)を手に入れて参戦できたことも出場台数が増えた大きな要因だ。

マクラーレン・ホンダMP4/5(1989年)
マクラーレン・ホンダMP4/5(1989年)

そんなエンジン規定の変更を圧倒的な技術力で乗り越えたのが「ホンダ」である。前年の1988年に名門チーム「マクラーレン」にV6ターボエンジンを供給し、全16戦中15勝。あまりに強すぎる東洋の黒船メーカーの流れを止めるべく、1989年にターボエンジンが禁止となったが、ホンダが「マクラーレン」に供給したV10エンジンは開幕戦からアイルトン・セナがポールポジションを獲得すると、その後、全16戦中10勝を飾る成績を残した。ホンダのF1での強さはまさに社会現象を巻き起こし、当時の若者たちに大きな希望を与えていったと言える。

ホンダの成功の陰で、厳しい試練を味わったメーカーもある。二輪メーカーの「ヤマハ」がF1に参戦したのも1989年。ヤマハはモータースポーツ黎明期の時代より二輪では常にホンダのライバルであり、四輪用のレーシングエンジン開発にも長けたメーカーだった。ヤマハは1988年に国内の全日本F3000(現在のスーパーフォーミュラ)で鈴木亜久里(すずき・あぐり)と共にチャンピオンを獲得。その称号を手土産にF1へと参戦したが、パートナーとなったドイツの「ザクスピード」は1988年は半分以上のレースで予選落ちした弱小チーム。しかも当時はエントリー台数増加の影響で予備予選が実施され、「ザクスピード・ヤマハ」は全16戦中14戦で予備予選すら通過することができなかった。

ザクスピード・ヤマハ(1989年/手前)
ザクスピード・ヤマハ(1989年/手前)

【予備予選】

当時のF1はグランプリに出走可能な台数が30台に制限されていた。成績上位チーム26台は予備予選が免除されるが、残りの13台は4台の出走枠をかけてブッツケ本番の予備予選を戦う。予備予選の時間は金曜日の朝、僅か60分。上位4台に入れなければその時点で終了し、パドックを去らなければいけなかった。予備予選落ちをしたドライバーはグランプリに出走したと認められない厳しいものだった。

明確な対決構図と新鮮だった専門用語

バブルに踊った当時の日本。1989年はカメラメーカーの「キャノン」が引き続き「ウィリアムズ」のメインスポンサーを務めたほか、アパレルブランドの「レイトンハウス」がスポンサーにとどまらず、チームを買収してチームオーナーになっていた。日本企業にとってF1チームは事業としてお金で買える存在となっていたのだ。自動車メーカーに限らず、多くの企業がF1に関心を示していた時代だった。

当時の「F1ブーム」を物語るエピソードとして、鈴鹿サーキットの「F1日本グランプリ」のチケット販売方法がある。今では考えられないが、1987年から開催された同イベントのチケットは購入前に抽選が行われていた。購入希望者は往復ハガキを鈴鹿サーキットに送り、抽選が行われ、当選者だけがチケットを購入可能。インターネットの無い時代の実にアナログな手法でチケットを手に入れる。しかも、凄まじい倍率の抽選で当選しないとチケットを手にすることすらできないプラチナチケットであり、F1観戦自体が一つのステータスに。芸能人がF1日本グランプリを観戦したことを自慢げにテレビで語るほどだった。

そこまでしてまで見てみたいと思わせた当時のF1。人気に火がついた要因はやはり、「マクラーレン・ホンダ」の活躍と同チームのアイルトン・セナアラン・プロストによる明確なライバル対決であろう。格闘するかのごとく暴れるマシンをねじ伏せて神業ドライブを披露するセナ、教授(プロフェッサー)の異名と共に常に沈着冷静で策略的なレースを展開するプロスト。2人の逸材によるチームメイト同士のライバル関係は非常に分かりやすいものだった。そこに日本の希望として中嶋悟や鈴木亜久里が走る。世界の頂点の高さとそれをひたむきに追いかける日本人。知らない世界でも心を惹きつける要素がたくさんあったと言える。

セナとプロストの対決は鈴鹿の日本グランプリで同士討ちという結末に【写真:MOBILITYLAND】
セナとプロストの対決は鈴鹿の日本グランプリで同士討ちという結末に【写真:MOBILITYLAND】

分かりやすさの反面、初心者を難しく感じさせるモータースポーツ特有の専門用語は「F1ブーム」と共にお茶の間に浸透していった。今では多くの人が知っている「ポールポジション」や「ピットイン」などの言葉も当時は新鮮で、時には説明が必要でもあった。ただ、そういった用語を説明する書籍や雑誌、テレビ番組が数多く存在していたのも事実で、専門誌に限らず男性誌や少年雑誌などでもF1が特集されるなど、当時の日本では全ての歯車がF1にピッタリ合って、強烈なパワーを生み出していたと言える。

今となっては古き良き時代。まさに時代と当時の若者の力によって後押しされて人気を獲得していったF1。当時は今と比べて単調な展開のレースに、知らぬ間に寝落ちしてしまった経験を持つファンも多いだろう。今はレースの専門用語も増え、戦略面も複雑になり、楽しむためにはマニアックな知識が求められる。お茶の間を巻き込んだ、かつてのようなブームが再来することは難しいのかもしれない。

平成元年、日本のモータースポーツは一気に最盛期を迎えたところから新時代がスタートした。

【平成元年(1989年)のF1主なトピックス】

・アラン・プロストがワールドチャンピオン

・アイルトン・セナが全16戦中ポールポジション13回

・マクラーレン・ホンダ10勝(プロスト4勝、セナ6勝)

・ターボエンジン禁止、3.5L自然吸気エンジンに

・中嶋悟(ロータス)がオーストラリアGPで4位入賞

・中嶋悟(ロータス)が日本人初のファステストラップ記録

・鈴木亜久里(ザクスピード)が全戦予備予選落ち

・日本GPではアレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン)が優勝

・日本GPの観客動員数は13万2000人(決勝日)