ドン底からの再浮上。21歳の元世界GPライダー、尾野弘樹が目指すもの。

尾野弘樹(おの・ひろき)

今から20年前の1994年、オートバイレースの最高峰「ロードレース世界選手権(世界GP)」では数多くの日本人ライダーが海外選手を相手に戦っていた。中でも、軽量級(排気量125cc)のGP125クラスでは日本人ライダーがレースを席巻。全14戦中10戦で日本人ライダーが勝利し、鈴鹿の日本グランプリでは日本人が表彰台を独占し、坂田和人(さかた・かずと)が日本人初の125ccクラス世界チャンピオンに輝いた。まさに日本人ライダーの黄金期である。

ヨーロッパ人に比べ日本人には華奢な体格の人が多いため、軽量級クラスの活躍は「日本のお家芸」と言えるものだった。しかし、20年後の今年、ロードレース世界選手権の軽量級クラス「Moto3」(モトスリー/250cc)に参戦する日本人ライダーは一人も居ない。ここ数年の同クラスはスペイン人が席巻し、直近5年間のチャンピオンで4人がスペイン人。今やロードレースの世界はスペインが大国になっており、日本人が入り込む隙間は実に限られている。

世界選手権Moto3クラス 【写真提供:MOBILITYLAND】
世界選手権Moto3クラス 【写真提供:MOBILITYLAND】

スペインを舞台に戦う21歳、尾野弘樹

尾野弘樹
尾野弘樹

日本人が誰も居なくなった世界選手権「Moto3」クラスだが、世界選手権への登竜門とも形容されるCEV REPSOL(旧スペイン選手権)の「Moto3」クラスには今年、5人もの日本人ライダーが参戦し、世界選手権への復帰を狙ってレースを戦っている。

その中で最も豊富なキャリアを持つライダーが「Honda Team Asia」から参戦する尾野弘樹(おの・ひろき)。まだ21歳という若さながら、彼は18歳の時に世界選手権の軽量級クラス(当時はGP125)をレギュラーで戦った経験がある。世界選手権に18歳でデビューし、雨のスペインGPで自身初の8位入賞を果たすものの、彼の人生は思いがけない所で挫折した。

2011年の世界選手権GP125クラスを戦っていた尾野弘樹
2011年の世界選手権GP125クラスを戦っていた尾野弘樹

レースを辞めようとまで思った

2011年の世界選手権GP125、レギュラー参戦2戦目での8位入賞は非常にセンセーショナルな出来事だった。尾野が乗っていたマシンは既に旧型になっていた「KTM」のバイク。マシンのポテンシャルを考えれば、大健闘の上位入賞を果たし、尾野はいきなり注目される存在になる。しかし、その僅か1ヶ月後、イタリアの所属チームが突然の契約終了を宣告してきた。

「第5戦目のレースに出発する日に、チームから“お前は来なくていいよ”と言われました。理由を聞くと、お金が無くなったと。今週走りたいのなら(日本円にして)500万円用意しろと」

世界選手権GP125時代
世界選手権GP125時代

チームは交渉していたスポンサーを獲得できず、参戦資金がショート。尾野にかわって資金を持ち込めるフランス人のライダーを走らせることになったというのだ。実力を見込まれて掴んだ世界選手権のシートは、快挙ともいえる8位入賞の好成績を評価されることもなく、いとも簡単に他人に買われてしまうというレース界の現実を18歳の少年は突きつけられてしまったのだ。

「悔しさと、腹がたつ気持ちと、それ以外何も考えられませんでした。(世界選手権に来ても)ここでもお金かと。。。他に走るチームを探したんですが、どこからもお金を持ってこいと言われて、自分の心の中にあったのは、ついにレースを辞めなくちゃいけない時が来たのかな、終わりはここなのかなと思いましたね」

尾野のブログの更新は滞り、しばらく音沙汰の無い日々を過ごす。日本の不況に加えて震災直後の状況下では、日本で1戦あたり500万円を出してくれるスポンサーを探せるムードでは無かった。失意のまま、尾野は日本に帰国した。

「世界に戻るのは無理だと分かっていました。日本に帰国してからは、それでもレースを続けるためにはお金を稼がなきゃとアルバイトをしていましたね。山で木を切る仕事をしていました。時給1000円の。ずーっと木を切っていましたね」

雌伏の日々を過ごしていた尾野だが、徐々に心の中に「(解雇したチームを)見返してやりたい」という気持ちが芽生えるようになったという。

アジアのライダーのベンチマークとして

世界への復帰を期して、挑戦するレースを探していた尾野に突然、電話がかかってくる。アジアのサーキットを転戦する「ロードレース・アジア選手権」のホンダCBR250R(市販車)を使ったレースが誕生し、日本人ライダーとして走らないかという話だった。

CBR250Rアジアドリームカップの攻防 【写真:MOBILITYLAND】
CBR250Rアジアドリームカップの攻防 【写真:MOBILITYLAND】

このレースは市販車がベースのCBR250Rを出場者全員がレンタルして、同一条件で腕を競うレース。二輪車の売れ行きが好調で、バイクレース熱が高まる東南アジアのライダーと日本人ライダーを戦わせ、アジアのライダーを世界選手権へと導くために作られたレースだ。ずっとレース専用バイクで戦ってきた尾野にとっては市販車ベースのバイクレースはいわばステップダウンになる。また、相手は日本よりも2輪モータースポーツの歴史が遥かに短いマレーシア、タイ、インドネシアのライダーたち。しかし、「このプロジェクトは世界につながっている」と感じた尾野は余計な事は考えずに挑戦を決めた。

スタートからチェッカー直前の最終ラップ最終コーナーまで、スリップストリームを使い合ってバトルを展開するCBR250Rのレース。東南アジアのライダーたちは、実績のある尾野をベンチマークにして果敢に追いかけた。一見、初心者向けとも思えてしまうレースだが、現実にアジアのライダーたちの気迫にはヨーロッパのスペイン選手権や世界選手権に近いものを感じると尾野は語る。

尾野弘樹は初年度こそ、転倒からノーポイントに終わったレースが影響し、チャンピオンを獲得できなかったものの、2年目の2013年は全12戦中9勝を飾る圧倒的な速さでチャンピオンを獲得した。

CBR250Rアジアドリームカップでチャンピオンを獲得した尾野弘樹
CBR250Rアジアドリームカップでチャンピオンを獲得した尾野弘樹

支えてくれた父への想いを胸に、再挑戦

2年目でCBR250アジアドリームカップの頂点に立った尾野弘樹は今年、世界選手権への登竜門「CEV REPSOL(旧スペイン選手権)」にホンダの全面バックアップの下に参戦するチャンスを掴んだ。彼は10代の頃にスペイン選手権に数戦だけ参戦した経験があり、実際にはここまで戻ってきたという感じだが、今年の同選手権「Moto3」クラスは前年のチャンピオンも出場しており、以前にも増してハイレベルな選手権になっている。

ここに戻ってくるまでに様々な苦労と挫折があった尾野。チャンピオンを獲得した昨年のシーズン中にも、父親の謙司さんが病気で亡くなるという悲しい出来事があった。

「6月に父親が亡くなって、次の週にインドでレースがあったんですけど、そのレースは周りのライダーが全然気にならなくなったんです。周りが何秒で走ろうが抜いてこようが、自分が勝つだけっていうことだけ考えて走れたんですよ。接戦だったけど、勝つ事ができました。勝ったら天国で喜ぶだろうなぁって思いながら走っていました」

今までにない感覚でレースができたという尾野はそこから流れを掴んでチャンピオンが獲れたと語る。その良い流れは今年のレースでもキープされている。開幕ラウンドとなった4月のヘレスのレースでは、第2レースで表彰台まで鼻差の4位入賞。日本人ライダーの中で最上位のフィニッシュを果たしている。

CEV Repsolを戦う尾野弘樹。マシンはホンダNSF250ベースのTSR3
CEV Repsolを戦う尾野弘樹。マシンはホンダNSF250ベースのTSR3

トップの2人はホンダが今年から導入した最新鋭のワークスマシンを使用しており、レースでも明らかな差が生まれたが、トップ2人と変わらないベストラップを刻むなど手応えを感じる事ができるレースになったようだ。シーズンの早い段階で表彰台の頂点に立つことができれば、きっと世界選手権「Moto3」クラスを戦うチャンスは巡ってくるだろう。資金力ではなく、自分の実力で再びヨーロッパに戻ってきた尾野弘樹なら、18歳の少年を無情にも見捨てたチームを「見返す」日も、「世界の頂点に立つ」日も、そう遠くはないはずだ。

尾野弘樹が参戦するCEV RepsolのレースはYou Tubeでレース映像が楽しめる。

掲載したのは尾野が4位に入賞した第1戦ヘレスの第2レース。尾野はゼッケン50番。

【尾野弘樹】

おの・ひろき/奈良県出身の21歳

小学校2年生でモトクロスを始め、後にロードレースに転身。2008年、2009年と全日本ロードレースGP125でランキング3位。2010年からはヨーロッパのレースに出場し、2011年に世界選手権GP125クラスにデビュー。スペインGPで8位入賞を果たすも、4戦を終えてシートを喪失。無念の帰国後、ロードレースアジア選手権CBR250Rアジアドリームカップに出場し、2013年にチャンピオンを獲得。今シーズンは世界選手権への登竜門と呼ばれる「CEV Repsol(旧スペイン選手権)」にフル参戦している。公式ブログ