「高校野球 夏の甲子園大会中止」と「9月入学見送り」の残念な共通点

(写真:アフロ)

5月20日、夏の高校野球甲子園大会の中止が決まった。27日には、政府が21年度9月入学見送りの方針を固めた。このふたつ、発端が新型コロナだったこと以外にも共通する部分がある。

夏の甲子園大会の中止自体は至極順当な判断だと思う。学生の本分は勉強である。まずは生徒たちの失われつつある学習機会を確保することが重要で、クラブ活動は二の次だ。中止の理由としては、予定通りの日程での地方大会の実施が難しいことに加え、選手の罹患のリスクも挙げられていた。

しかし、これは妙だ。社会学者の古市憲寿氏も指摘していたが、これまで高野連は猛暑に選手たちを長時間晒すこと、常軌を逸した投球数を強いる日程や文化に全く懸念を示しておらず(少なくとも第三者の眼にはそう見える)、「なぜゆえ急に健康、健康とのたまうか」と皮肉のひとつも言いたくなる。

ここで話題を変え、9月入学について少々字数を費やす。政府・自民党はワーキングチームの「現実的ではない」との提言をもとに2021年の導入を見送ることで調整に入った。

この議論も魑魅魍魎だった。休校期間が長引き、年間カリキュラムの完了が難しくなった事態への対処法として9月入学の是非を話し合うのか、そもそも教育のあるべき姿として世界標準の9月入学を検討するのかがごっちゃになっていた。仮に後者だとすると「9月入学への移行を目指すが、2021年導入は見送る」という判断もあると思う。しかし、現実には「今からでも間に合うのか」というような緊急時の対処論と教育のあるべき姿のような国家としての戦略論が一緒くたになっている。そこに「やるなら今しかない」というある意味正当な意見も入ってくるから余計ややこしい。その結果、「拙速な議論は避けるべき」と先送りになった。

しかし、「やるなら今しかない」は本質を突いている。現場というのは変化を望まない。焦点が来年の9月入学ではなく、再来年の9月入学でも、事務方は「今からでは時間が足りない」と言うだろう。これは教育に限らない。一般論としては、現場の第一線に近ければ近い者ほど当てはまる行動傾向だ。だから、政治判断が必要なのだ。

同じことが夏の甲子園大会中止にも言える。開催の是非を議論した人たちはあらゆる可能性を検証したわけではないだろう。あくまでも、例年通りのフォーマットで開催し、是非は別にして、高校野球を高校野球たらしめている青春感動物語の要素には手をつけない前提で考えたのだと思う。そうなると、中止以外の選択肢はありえない。

本当は、時期を極端にずらすとか、その結果気候を考慮しドーム球場で開催するとか、県大会だけでなく「東北」とか「四国」という単位での地方大会までは各地域で開催し、全国大会は8校くらいに絞るとか、それにより少なくとも全国大会はトーナメントではなくリーグ戦にするとか、無数のオプションがあったと思う。感染リスクはゼロではないが、われわれは新型コロナウィルスとの共存社会を目指すしかないのだから。

この機を捉え、高校野球の抱える問題点の解決に着手して欲しかった。「やるなら今しかない」とも言えた。しかし、議論に参加した人たちは、あくまでこれまでの様式を崩したくなかったのだと思う。ガラパゴス化した高校野球を国際標準のアマチュアスポーツに改革する一歩を踏み出す好機ではあったが、彼らのインセンティブはそうではなかったのだろう。