ロッテ・福浦引退試合に「見事な一体感」を見るか?「公式戦の尊厳の危機」を見るか?

(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

先日引退試合を行ったロッテの福浦に関する記事で、興味深いものがあった。興味深いものがあった。ぼくのことだと思われる「フリー記者」への意見も含まれている。

趣旨は大きく分けて二つある。福浦の引退試合の素晴らしさと、現場を取材していない記事への苦言だ。これは、スポーツ報道のあり方に関して議論を深めるきっかけになると思う。

で、このことに対しぼくなりの意見を述べてみたい。

ぼくもできることなら日常的に取材行為を行いたいのだが、残念ながらそれは叶わない。文筆業で生計を立てているわけではなく、本業は人並みに忙しいからだ。また、仮にぼくが「取材させて下さい」と各球団に取材を申請したところで、それが受け入れられる可能性はほぼ皆無だ。

ならばせめてチケットを買って現場に居合わせたらどうだ、という意見はあると思う。それはある程度その通りだと思うけど、「現場に居た者による記事でなければダメだ」とも取れる論調もいかがかなと思う。

人は誰でも自分の意見を述べる権利があるし、現場に居なくても語れることはいくらでもある。別にぼくは、その日のZOZOマリンの盛り上がりを伝えようとしたのではない。盛り上がっていたから善、一体感があったから良しということではなく、そもそも公式戦で戦力外の選手の引退試合を行うことが間違っているというぼく自身の考えを述べたのだ。

この記事は、福浦の姿勢、井口監督の男気と秘策、選手たちの一体感、球団の営業努力は伝えたかもしれないが、公式戦の尊厳や、記録の本質的なあり方には触れていない。もっと根源的な部分の問題点から目を背け、限定的な部分の感動だけにフォーカスしている、と言えなくもない。この引退試合が示すミクロの部分かマクロか、どちらにフォーカスするかということでしかないのではないか。

「公式戦の尊厳や、記録の本質的なあり方は、事情通でなければ語れない」ことではない。プロレスなどのショービジネス的スポーツとは異なる真剣勝負を前提とするプロスポーツの在り方というもっと高い概念の話、いわば原則論を語っているのだ。これは専門性とはあまり関係がない。プロ野球12球団名すら諳んじられないワイドショーのコメンテーターでも、時代や場所、嗜好を超えた世の中の原則を理解する者なら十分問題提起できることだと思う。

限られた媒体に所属する者、またはその道の第一人者でなければそもそも自分の意見を発する場が得られなかった昔とは違う。実際、ぼくの記事に批判的なツィートを発している人たちも自分の意見を世界に向けて述べているのだ。その意味では、大手媒体に属し連日取材パスで観戦できるプロの記者も、ぼくのような片手間フリーライターも、ぼくの考えに否定的なSNSユーザーもまったく同じ土俵上にいるのだ。だから、ぼくはネット上で叩かれても別に気にもしない。

もちろんぼくの記事も含め、ネット上は玉石混淆だ。しかし、職業ライターが書いたものがハイクオリティだとも限らない。いや、むしろ逆で、彼らは記者クラブの存在や取材対象とのセンシティブな距離感により、ケースによっては言いたいことも言えない、球団に都合の悪いことは書けない、それをやったら出禁になるかもしれない、そういう立場にあるかもしれない。何せ、日本は世界有数の「報道の不自由」国なのだから。

真理は、むしろなんのしがらみもない非職業ライターの書くその玉石混淆の中にある可能性も否定できない。もちろん、ぼくのようないわばセミプロや一般のファンによるものが全て真というわけではないが、本質を突いた意見は、がんじがらめの状態にある大手メディアでは発し難いということは往々にある。