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野球の未来予想図 番外編 元サイ・ヤング賞投手ライルが語る過去と現在

豊浦彰太郎Baseball Writer
75歳の今も元気いっぱい。かつてのサイ・ヤング賞投手ライルさん。

MLBとの提携で新ルールの実験を行うアトランティック・リーグを訪ねた今回の旅の最後には特別な出会いがあった。サマセット・ペイトリオッツの元監督で今は球団の顔としてファンサービスに努めるスパーキー・ライルさんだ。

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彼は同球団の初代監督としての15年間に通算5度のリーグ優勝を成し遂げた功労者なのだが、その知名度はそれ以上にリリーフ投手としての現役時代の華々しい活躍によるところが大きい。1970年代を中心とする16年間でセーブ王には2回輝き(1972、76年)、球宴に3回選出された(1973、76、77年)。投手として最高の栄誉とされるサイ・ヤング賞に輝いたこともある(1977年)。通算セーブは238だった。守護神は必要とあらば6〜7回から、走者を背負ったピンチで登板した時代だ。9回1イニングだけが担当の現代とは、1セーブの重みが違う。

ライルさんは試合前にはファンにひっぱりだこだ。
ライルさんは試合前にはファンにひっぱりだこだ。

また、1977〜78年ヤンキース連続世界一の主要メンバーで、独立独歩の野武士集団だった同球団での日々を赤裸々に語った著書「ブロンクス・ズー」はベストセラーになった。ちなみにヤンキー・スタジアムのあるブロンクス区にはブロンクス動物園(Bronx Zoo)がある。個性派集団の中でプレイすることを、猛獣・珍獣の檻の中になぞらえたタイトルだ。

若かりし頃は相当アクが強かったライルさんもすでに75歳。豪放磊落な部分はそのままに好々爺になった、そんな感じだ。彼とのインタビューは、両者の爆笑とともに進んだ。

「今の救援投手は役割が細分化され、よりスペシャリストになったね。6回担当、7回担当、左打者専門・・・、わしの時代はリリーフエースでも、時には4回からでも5回からでも登板したもんさ。だから、年間20〜30セーブが精一杯だった(サイ・ヤング受賞の1977年は26セーブ)。今の球界で投げたら?9回限定なら60セーブだって行くさ(笑)。わしだけじゃなく、リッチ・ゴッセージ(セーブ王3回、2008年殿堂入り、1990年はダイエーでも投げた)、ローリー・フィンガース(MVP / サイ・ヤング賞各1回、セーブ王3回、1992年殿堂入り)ブルース・スーター(サイ・ヤング賞1回、セーブ王5回、2006年殿堂入り)、みんなそうだよ」。

「球宴投手の起用方以外でもこの世界は変わったね。変化の最大の要因はカネだよ、年俸も高くなったから分析も進んだ。ベースボールは、昔はメンタルゲームだったが、今はコンピューターゲームだよ」。

球団広報のマークさんとともに。
球団広報のマークさんとともに。

ここで、昔話に振ってみた。1977年、前述のようにヤンキースは世界一になり、ライルは大車輪の活躍を見せサイ・ヤング賞を受賞した。しかし、オフにはヤンキースは更なる補強に乗り出し、ライルと同じリリーフエースでFAのゴッセージを獲得したのだ。信じられないような話だが、FA制度発足間もない当時、ヤンキースはスタークラスのFAが発生すると、委細かまわず獲得に走った。

「すぐに、ジョージ(スタインブレナー・オーナー)のところに駆け込み噛み付いたさ(笑)」。

その時の心境を正直に語ってくれた。

「もちろん、グース(ゴッセージの愛称)を責める気は無いさ。わしが同じ立場でも一番条件の良い球団と契約したと思うからな。でも、球団には言いたかった。それならわしをトレードしろとな」。

そして、1978年シーズンの開幕戦を迎えた。この年は日本のMLBファンには画期的なシーズンだった。フジテレビが、録画とは言え中継に踏み切ったのだ。その記念すべき初中継が、今は取り壊されたアーリントン・スタジアムでのレンジャーズ対ヤンキースの開幕戦だった。東京のスタジオにジョー・ディマジオがゲストとして招かれたのをぼくも覚えている。

1対1の8回裏、そこまで好投を続けていたエースのロン・ギドリーに代えてヤンキースがマウンドに送ったのは、ライルではなくゴッセージだった。そして、そのゴッセージは9回裏、先頭のリッチー・ジスクにサヨナラ本塁打を献上した。この話をすると、ライルさんは外国人のぼくが、そこまで知っていることに痛く感動してくれた。

「結局、そのシーズンはわしはナンバー2の存在でしかなかったのだけど悔いはないね。みんなで2年連続世界一を勝ち取ったんだから」。

今年は、その当時のヤンキースのキャプテンだったサーマン・マンソン捕手が飛行機事故で亡くなって40周年に当たる。そのことに触れると、

「1972年レッドソックスからヤンキースにトレードされてきた時に、一番最初に声を掛けてくれたのがマンソンだったよ。オマエは走者三塁でも(得意球の大きく変化する)スライダーを投げろ、絶対におれが止めてやるからな、とね」。

ヤンキー・スタジアム内のミュージアムには、40年前のマンソンのロッカーが保存されている。
ヤンキー・スタジアム内のミュージアムには、40年前のマンソンのロッカーが保存されている。

そして、それはある日現実になったそうだ。

「それはミルウォーキーでのことだったよ。走者三塁でわしはスライダーを投げた。それがキレすぎてマンソンは後逸した。もちろん三塁走者は本塁に突進だよ。しかし、マンソンはフェンスに当たって跳ね返ったタマを掴みランナーにタックルさ。判定はアウト。ヤツはこっちに目を向けてこう言ったんだ。な、言ったろ(told you?)ってね(笑)」。

引退後、ペイトリオッツの監督になった経緯が面白い。

「ある日、地元のディーラーにトラックを注文しに行ったんだ(アメリカではピックアップトラックを乗用車として使うケースが多い)。その後、そのディーラーの社長が新生球団ペイトリオッツのオーナーになることを知ったんだ。そして、2部の契約書を渡されたよ。なんだこれは?って聞いたら、ひとつはトラックの注文用で、もうひとつは監督としての契約書だ、と言われ目を丸くしたね(笑)」。

ここで写真撮影に移った。その何枚かの一枚は、ぼくが寄稿させてもらっている某専門誌を掲げて撮らせてもらった。その雑誌の表紙のビジュアルは大谷翔平のスイングだった。

「お、この若いの。スイングは力強いな。だが、わしのスライダーだったらカスリもせんぞ!ガハハ!」

いいスイングじゃが、わしのスライダーは打てんぞ!
いいスイングじゃが、わしのスライダーは打てんぞ!

インタビューを爆笑で締めてくれた。お互いにしっかり握手して別れた。ゲーム開始まであと30分。ここからが彼にとってもっとも大切な仕事時間だ。邪魔するわけにはいかない。スタンドを練り歩き、ファンをフィールドに呼び寄せ、談笑、記念撮影、サインに応じる。

コンコースには、ライルさんの顔出しパネル(観光地によくある記念撮影用のアレだ)がある。この球場の2人(2匹?)のマスコットの名前は、スパーキーとスライダー。名実ともにライルさんはこの球団の顔なのだ。

コンコースにある顔出し撮影パネル。
コンコースにある顔出し撮影パネル。

このインタビューが、ことの外ぼくにも楽しかったのは、彼が単に昔話を面白おかしく語ってくれたからだけではない。過去の栄光はもちろんだが、現在も独立リーグ球団の重要な顔としての役割を担い、ファンもそれを楽しみに球場にやって来て、本人も大いにエンジョイしている様に触れることができたからだ。

「もちろん、わしは毎日球場に来ること、毎日こうやってユニフォームに袖を通すことを心底楽しんでいるよ」。

スパーキー・ライルは単に過去の偉大な功績で語られるだけの存在ではなく、いまなおこの偉大なアメリカのナショナル・パスタイムにそれなりの役割を担い地域社会に貢献しているのだ。結局、クーパーズタウンの野球殿堂に入ることはできなかったが、最高に素晴らしいベースボールライフを送って来たと思う。

ペイトリオッツのマスコット、向かって左がスパーキー、右がスライダー。
ペイトリオッツのマスコット、向かって左がスパーキー、右がスライダー。

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<写真は全て豊浦彰太郎撮影>

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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