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日本料理と書はどのように融合したのか? 世界で注目されている書家が器に描いた15の書

東龍グルメジャーナリスト

食欲は基本的な生理的欲求

食から最も遠いものとは何でしょうか。

食欲は人間の最も基本的な欲求であり、はっきりと感じられる具体的な現象です。マズローの欲求段階説に従えば、食欲は人間が生きていくために必要な生理的欲求の一つであり、欲求の中で最下層に位置しています。

その反対に位置するものと言えば、最上層に位置し、自分自身の能力を最大限に引き出して何かを具現化する自己実現欲求です。これは芸術を紡ぎ出すなどの創造的活動が当てはまります。

このような観点からすると、食は芸術と最も反対に位置するものと見做されてもよいのではないでしょうか。

食は単なる欲求ではない

食は人にとって最下層の欲求と述べたばかりです。しかし、「カンテサンス」「NARISAWA」「フロリレージュ」「TAKAZAWA」「アルシミスト」「セララバアド」、マンダリン オリエンタル 東京「タパス モラキュラーバー」など、現在流行しているモダンフレンチやイノベーティブレストランを挙げるまでもなく、ある水準以上のレストランで食事を体験すれば、食が単に生理的欲求を満たすためだけにあるのではないことが分かるのではないでしょうか。

見た目の美しさやプレゼンテーションの躍動感、味わいの複雑さや神秘性、食感のテクスチャや香りの豊かさ、食材からプレートに至るまでのストーリーによって、「食べ物」の範疇を超えていることが理解できるからです。

料理人にとっても、単においしい料理を作っているだけではなく、自己実現欲求につながるような創作活動をしているように私は感じられるのです。

食と芸術の融合を試みる

以上のことから、食はそれ自体が芸術を内包したものであると考えていますが、食と芸術を融合させる試みを行っているホテルがあります。

それは、パーク ハイアット 東京です。

パーク ハイアット 東京では「マスターズ オブ アーツ(The Masters of Arts)」と題し、この2017年の始めから食と芸術との融合を試みたフェアを行っているのです。

食と芸術はどのようにして融合しているのでしょうか。

マスターズ オブ アーツ

「マスターズ オブ アーツ」の内容は以下の通りです。

  • バレンタインデー&ホワイトデー チョコレート × エアロソン-レックス メストロヴィック

2017年2月1日(水)~3月15日(水)にかけて「“レックス” スペシャルチョコレート」を販売

  • 梢 大江憲一郎 × 書家 中塚翠涛「書と料理」

2017年7月15日(土)~31日(月)にかけて特別コースを提供し、2017年7月14日(金)は「“マスターズ オブ アーツ” スペシャルディナー」を開催

第1回目はチョコレートとカリグラフィーが、現在開催されている第2回目は日本料理と書が融合しています。

第1回目

レセプションの様子(著者撮影)
レセプションの様子(著者撮影)

最初に行われたのは、パーク ハイアット 東京のエグゼクティブ ペストリーシェフであるパスカル シャルデラ氏と、カリグラフィー、 デザイン、 テクノロジーを通して表現するニューヨーク在住アーティスト、エアロソン-レックス メストロヴィック氏(通称「レックス」)のコラボレーションでした。

2017年2月1日から3月15日という、バレンタインデーやホワイトデーの時期であったこともあり、チョコレートを用いていました。

レックス氏がアルゼンチン出身であることから、同じく南米のペルーで発見された白いカカオを使用してチョコレートを作り出しました。その希少性もさることながら、注目するべきところはチョコレートの表面。

正反対でありながらも互いに共鳴する「陰陽」をコンセプトにし、眩しいばかりの金色を用いて、レックス氏がチョコレートの表面にカリグラフィーを用いて模様を描いたのです。

チョコレートの表面にロゴなど何かしらの模様が描かれることは決して珍しいことではありませんが、金色のカリグラフィーとなると他には見当たらないのではないでしょうか。

第2回目

ガラディナーにおけるトークパートの様子。左が大江氏、真ん中が中塚氏、右がMCの田中雅之氏(著者撮影)
ガラディナーにおけるトークパートの様子。左が大江氏、真ん中が中塚氏、右がMCの田中雅之氏(著者撮影)

第2回目は、 日本料理「梢」料理長である大江憲一郎氏と世界的な書家である中塚翠涛氏によるコラボレーションです。2017年7月15日から31日に行われ、2017年7月14日には中塚氏も招いたガラディナー「“マスターズ オブ アーツ” スペシャルディナー」が開催されました。

中塚氏は4歳から書を始め、著作がベストセラーとなったり、フランスで150年を超える歴史を誇る「ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール」で2016年に「金賞」「審査員賞金賞」をダブル受賞したりするなど、注目の書家です。

この中塚氏が「梢」のために焼き上げた唐津焼と有田焼の器に書を描き、大江氏がその器に料理を盛り付けています。それだけではなく、中塚氏の作品を「梢」の店内に展示するなどし、書と日本料理の深い融合を図っているのです。

コース内容

先付(試食、器の書は「味」、著者撮影)
先付(試食、器の書は「味」、著者撮影)

「“マスターズ オブ アーツ” スペシャルディナー」のメニューは以下の通りでした。

  • 先付

毛蟹のかに味噌和へ

無花果 新銀杏 小角水前寺海苔

  • 椀盛り

丸仕立 鱧葛打ち 椎茸 結び素麺

隠元 青降り柚子

  • 造り

本鮪中とろ 真子鰈昆布香押し 椎海老 雉海老

生海苔 防風 大根けん 山葵

  • 八寸

鱧寿司 胡麻 有馬山椒 海苔

鮴甘露煮木の芽和へ 酢取り蓮根

穴子八幡巻 山桃ワイン蜜煮

精進麸射込み 丸十レモン煮

  • 焼物

黒毛和牛サーロイン肉炙り焼き

上賀茂茄子 万願寺 土佐とまと

香味たれ 山葵

  • 進肴

京本賀茂茄子含め煮

生うに炙り 車海老 蚕豆

共地餡 降り青柚子

  • 食事

鰻蒲焼き 麦とろご飯

山椒 もみ海苔

香の物

  • デザート

黒胡麻のババロア

岩梨 梅肉 黄身ソース

先付、八寸、焼物では中塚氏の書が描かれた器が使われています。中塚氏は100以上の器ひとつずつに書を描いているので、どの器もこの世に1つしか存在しません。どの器が提供されるかは、日によっても人によっても異なります。まさにその時限りの日本料理と書の融合であると言えるでしょう。

私が試食し、記事の写真にも掲載されているそれぞれの料理の器には「味」「月」「楽」が描かれていました。中塚氏は「月」「風」「味」「日日是好日」「楽」「春」「夢」「福」「無」「薫」「花」「波」「山川」「心」「吉」など約15種類の書を、企画段階から含めると、のべ3~4ヵ月もかけて作り上げたのです。

特定フェアで使用する器のためだけに、これだけの時間を割くことは、他にはまずないのではないでしょうか。

コラボレーションのきっかけ

八寸(試食、器の書は「月」、著者撮影)
八寸(試食、器の書は「月」、著者撮影)

この類まれな日本料理と書の融合は、どのようにして実現したのでしょうか。

実は大江氏と中塚氏は3年前に共通の知人を通じて知り合っており、既知の仲でした。

大江氏が中塚氏に一緒に何かできないかと持ち掛け、さらには中塚氏がもともとホスピタリティの高いパーク ハイアット 東京に対して大きな好感を持っていたことから話は進み、今回の開催に至ったのです。

このコラボレーションを中塚氏と大江氏はどのように捉えているのでしょうか。

一枚ずつ手描き

焼物(試食、器の書は「楽」、著者撮影)
焼物(試食、器の書は「楽」、著者撮影)

器に書を描くことに関して中塚氏は「陶器は和紙と違うので、筆の使い方も焼き上がった後の仕上がりも異なる。和紙よりもコントロールできないことによって、新たな創造を生み出せるので、私自身も楽しめた」とポジティブな考えを述べます。

大江氏の料理について尋ねると「料理はとても優しくて繊細な味なので、器だけで完成を求めるのではなく、料理が盛り付けられた時を想像しながら描いた」と、今回のコラボレーションを意識した書を描いたとします。

特に注目するべき器については「一枚ずつ手描きしているので、それぞれ表情が違う。唐津焼職人である岡本作礼氏の登り窯で焼かれた器は窯の温度によって変化する。それぞれの違いを是非とも楽しんでいただきたい」と話します。

料理と器が響き合う

中塚氏が描く書の印象について、大江氏は「書は女性らしいやわらかな線で、なめらかで美しい。器に描いた書は、ほぼ全てが一文字書であり、事前に話してないのに梢のコンセプトを射ぬいたかのようだ。陶器の線はなめらかで、和紙にはない色の変化もあって素晴らしい」と絶賛します。

器に対して何を意識して料理を作ったかと尋ねると「器の大きさや色采と料理の調和を考えて食材や調理法を決めた。日本料理と書は通常は決して交わることがない。しかし、料理と直接触れ合う器に描かれたのであれば、書が日本料理と響き合うのではないかと考えた」と、大江氏らしい繊細な感性で答えます。

どうして開催されたのか

ところで、パーク ハイアット 東京でどうして「マスターズ オブ アーツ」が開催されることになったのでしょうか。

世界のパーク ハイアット ホテルではもともとアートと空間のつながりを大切にしており、パーク ハイアット 東京でも、正面入口でゲストを迎えるマスク「ガッツィー」に始まり、壁やエレベーターなど館内の至るところに芸術作品が飾られ、アートが空間に溶け込んでいます。

「マスターズ オブ アーツ」を開催し、国内外で活躍する多彩なアーティストとコラボレーションすることによって、アートとの結び付きをますます強くし、パーク ハイアット 東京でしか体験できない世界を作り上げようとしているのです。

映画監督ソフィア・コッポラ氏を一躍有名にし、第76回アカデミー脚本賞を受賞した「ロスト・イン・トランスレーション」の舞台となったのが、このパーク ハイアット 東京であることは極めて有名ですが、パーク ハイアット 東京が紡ぎ出すアートを通した独特の雰囲気が映画に圧倒的な世界観を与えたのではないでしょうか。

ますます食と芸術を融合

2017年5月1日、市塚学氏がパーク ハイアット 東京「ジランドール」料理長に就任しました。市塚氏はパレスホテル東京「クラウン」で料理長を務め、ミシュランガイドで1つ星を獲得したこともある実力派の料理人であり、繊細かつ美しいモダンなフランス料理を得意としています。

「マスターズ オブ アーツ」を開始した僅か3ヶ月後に、芸術性のある料理を創り出す市塚氏が加わったことは、あまりにもできすぎた映画のワンシーンのようであり、食と芸術のつながりを深めていくパーク ハイアット 東京からますます目を離せなくなりました。

グルメジャーナリスト

1976年台湾生まれ。テレビ東京「TVチャンピオン」で2002年と2007年に優勝。ファインダイニングやホテルグルメを中心に、料理とスイーツ、お酒をこよなく愛する。炎上事件から美食やトレンド、食のあり方から飲食店の課題まで、独自の切り口で分かりやすい記事を執筆。審査員や講演、プロデュースやコンサルタントも多数。

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