全日空が大好きだった昭和の少年時代のお話

トライスター就航を伝える全日空時刻表1974年3月号

先日書いたニュース

かつては飛行機にも存在した「特急料金」のおはなし

このニュースを書くために筆者がコレクションしていた昭和の航空時刻表を整理していたらすっかり見入ってしまいました。

新聞や雑誌を整理し始めたら、途中で読み始めてしまうのと同じように、夢中になってしまい、じっくり腰を据えて読み始めてしまいました。

1974年3月10日 全日空に待望のワイドボディー機、ロッキード・トライスターが登場したニュースです。

当時の全日空は日本航空に追いつけ追い越せの時代。

国策会社として国の保護を受けていた日本航空が「御公家さま」であるとすれば、全日空は「野武士の集団」のような会社でした。

今では信じられないことですが、東京-大阪間や東京-札幌間などの主要区間では、先に離陸の許可を与えられて飛び立って行った日本航空の飛行機を、あとから離陸した全日空機が途中で追い抜いて、先に目的地に着陸するなんてことが毎日のように行われていた時代です。

会社の規模ではかなわないものの、毎日のフライトでは「日本航空に追いつけ追い越せ」をやっていた時代でした。

今から45年も前のお話ですが、そういう会社でしたから、当時東京の中学生だった筆者は、当然のように全日空の大ファンでした。

この前年、1973年(昭和48年)に日本航空がいわゆるジャンボジェットと呼ばれるB747SR型(498人乗り)を国内線に就航させたのに続き、全日空は1974年3月にトライスター(306人乗り)を導入し、日本におけるワイドボディー機時代、航空の大量輸送時代が始まりました。

今思えば航空の大衆化がスタートしたのがちょうどこの時だったのです。

日本航空は既に全便ジェット化されていましたし、国内線にもジャンボジェットが就航していた時に、国から国内線専用と命じられていた全日空は、プロペラのYS-11(60人乗り)やフレンドシップ(40人乗り)、ジェット機もB727(178席)やB737(115席)の小さな飛行機ばかりでしたから、どうしても見劣りがします。その全日空がB747に比べれば座席数では小さいものの、ワイドボディー機(機内に通路が2本ある飛行機の総称)が飛び始めたのですから、トライスター就航のニュースは日本航空のジャンボ導入の時よりもセンセーショナルだった気がします。

ところで、古い時刻表を見ていて面白いことに気がつきました。

全日空 1974年3月号
全日空 1974年3月号
日本航空 1974年7月号
日本航空 1974年7月号
TDA東亜国内航空 1974年7月号
TDA東亜国内航空 1974年7月号

何か気がつきますでしょうか?

時刻表のデザインや訂そうはそれぞれ違いますが、全日空の時刻表にご注目ください。

わかりますか?

そうです。

全日空の時刻表にだけ1974年というのが書かれていないんです。

時刻表に年号が書かれていないはずはありません。

で、どこだろう、どこかに書かれているはずだって探してみると、

赤枠で囲んだところ、右下に小さく昭和49年3月、March 1974と記載されています。
赤枠で囲んだところ、右下に小さく昭和49年3月、March 1974と記載されています。

中の目次のページに小さくおことわりのように書いてあるんですね。

時刻表ですよ。

何年何月って表紙に書くのは当たり前でしょう。

おかしいと思いませんか?

ちょうど1年後 1975年3月号
ちょうど1年後 1975年3月号

こちらは1年後の1975年3月号。

きっと誰かに言われたんでしょうね。

「お前のところの時刻表には不備がある。何年って書いてないじゃないか。」って

だから何年というのも表示されるようになりました。

わかりますか?

何処に書かれているか?

右下に小さく1975年と書かれています。(矢印のところ)
右下に小さく1975年と書かれています。(矢印のところ)

右下のカレンダーの下に小さく1975年って書かれているでしょう。

1974年にはありませんでしたが、1975年には書かれている。

それも、申し訳程度に。

不思議ですよね。

大きく書けばよいだけの話なのに。

なぜか理由はわかりませんが、きっと何か譲れないポリシーがあったのでしょう。

それが野武士の集団というものだと思います。

生意気盛りの昭和の中学生としては、こういう全日空の唯我独尊的な会社の姿勢からファンになって行ったのです。

ところがその後、しばらくして筆者は全日空のファンから日本航空のファンになりました。

今では会員制度などという囲い込みもあり、すっかり全日空にはご無沙汰してしまっております。

では筆者がどうして全日空のファンをやめてしまって、最近では日本航空のファンになったかというと、この後全日空は国際線の運航を開始しました。

日本航空に追いつけ追い越せがスローガンだった全日空にとっては悲願の達成です。

国際線と言っても当初は試験的に近距離を飛び始めましたから、まずは香港へのチャーター便から。それで実績を積んでグアム・サイパンなど近距離の路線から初めて、ワシントンだとかロンドンへ飛べるようになったのは1980年代後半のお話になります。

最初の頃は近距離国際線として中国に飛び始めた全日空でしたが、当時聞いた話によると、飛んできた飛行機を見て中国人がみんな笑ったそうです。

「全日空だって、おかしいね、笑っちゃうね。」って。

どうしてかというと、全日空は中国では毎日空(から)という意味らしい。

「毎日毎日空っぽで誰も乗ってませんよ。」って機体に描いて飛んでいると思われたのです。

(筆者は中国語がわかりませんのであくまでも伝聞ではありますが。)

そのことが直接の原因かどうかはわかりませんが、国際線に飛び始めるとしばらくして全日空は機体から会社の名前「全日空」を消しちゃって、

「今日からうちはANAです。ANAって呼んでください。」ってブランドを統一しちゃいました。

今考えると、全日空って会社はどうもそのころからおかしくなり始めたような気がします。

おかしくなったというと怒られるかもしれませんが、それまでの全日空とは違った路線を歩き始めたのです。

そして、筆者も何となくファンではなくなったのです。

そのわずか10年前、時刻表に年号を入れるのにあれだけこだわりを見せた会社が、国際線に進出できるなら何でも従いますとばかりに会社名を機体から消しちゃったんですからね。

野武士の集団だったら「全日本空輸」と書いてほしかったなあ。

ファンの心理としてはそう感じたものです。

JALも同じです。伝統の鶴丸を機体から消しちゃって、なんだかわけのわからない日の丸の欠片にしちゃったころからおかしくなりました。

そして、会社までダメにしちゃいましたからね。

思い出してみると筆者が以前お世話になった会社も、尾翼の色を1機1機別にして世界の翼などと言い始めて経営が少しおかしくなったことがありました。

機体から全日空の表記を消してしまったANA機
機体から全日空の表記を消してしまったANA機
伝統の鶴丸を捨てて日の丸の欠片(かけら)を尾翼に掲げていた時代のJAL
伝統の鶴丸を捨てて日の丸の欠片(かけら)を尾翼に掲げていた時代のJAL
機体から漢字表記を消した全日空のジャンボと日の丸の欠片の日本航空機
機体から漢字表記を消した全日空のジャンボと日の丸の欠片の日本航空機

コーポレート・アイデンティーなどが流行った時代ですから、皆さん社名変更したりしましたけど、全日空には野武士の集団としてのポリシーを貫いてほしかったなあと今でも思います。

なぜなら、「日本航空に追いつけ追い越せ」の時代を知る者としては、全日空は悲願だった御公家さまの日本航空に追いついて追い越せはしたものの、野武士はいくら頑張っても御公家さまにはなれないからです。

そんなことは信長、秀吉の時代にすでに証明されているのですから、身の程というものがあるのです。

唯我独尊と勘違いとは根本が違いますからね。

ANAというブランドが好きになって、その垢抜けたANAというブランドに魅せられた40代以下の若いANAファンの皆様方には申し訳ございませんが、筆者は別にディスってるわけではありません。

ただ、45年前と比べるとポリシーからして全く別の会社になってしまったということであります。

ちなみに当時の筆者は表向きは全日空ファンでありましたが、本当は東亜国内航空が一番好きでした。

その理由は、

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スチュワーデスさんが一番かわいかったのがTDA東亜国内航空でしたから。

御公家さまのお姫様も、野武士も娘も筆者にはちょっと不釣り合いですから遠慮させていただきます。

まだまだ航空会社が高嶺の花だった時代に、TDAは実に庶民的で気取らない会社でした。

その庶民的で気取らない気質が、御公家さまの会社と合併して、昔の御公家さま感が消えて、さりげないサービスができる会社になりましたので、今はそちらの会社を利用させていただいております。

古い時刻表を見ているだけで、これだけの考察ができるわけですから、マニアってのは楽しいものですよ。

おっと、筆者はマニアではなくプロでしたね。

飛行機に夢中になって一生懸命頑張りましたので、おかげさまでこの後しばらくして飛行機の仕事をさせていただくことができましたし、50を前に念願の鉄道の仕事もさせていただきましたので、マニアではなく飛行機も鉄道もプロになることができました。

若い皆さんが希望を持って一生懸命努力して、職業を通じて自己実現できる世の中になれば、この国の将来は明るいと筆者はそう考えるのです。

若い皆さんには信じる道を一生懸命努力して歩んで行って欲しいと願っています。

※文中に引用した時刻表はすべて筆者の所蔵品です。

※写真はすべて筆者撮影です。