【Interview】クラウドファンディングは現代音楽を変えるのか? 作曲家・山内雅弘に聞く

ボクが“山内雅弘”という名前を知ったのは、その業績よりも「クラウドファンディングでオーケストラ作品の初演への援助を募っている作曲家」という、どちらかと言えば“おもしろいことをしようとしている人”への興味のほうが先だった。

そのクラウドファンディングの募集画面はこちら。

https://camp-fire.jp/projects/view/78293

ボクが日ごろ取材をするジャズ・ミュージシャンのほとんどは、自ら曲を作って発表することを生業のひとつとしている。しかしそれを可能にしているのは、作曲者本人を含めた少人数の編成で公演を行なうという、経済原則に縛られた演奏業態に甘んじているからでもあったりする。

ジャズ・ミュージシャンへのインタヴューでもたまに、「こういう作品をビッグバンドやオーケストラで聴けるとおもしろいかもしれませんね」などと水を向けてみると、一様に「う~ん、できるといいですよね~」と、遠くを見つめながら答えるのが常だ。

15人程度のジャズ・ビッグバンドを維持することすら難しいと言われているのに、オーケストラを雇って自分の作品を演奏してもらうなんて、夢のまた夢というのが音楽界全般の現実なのだろう。

そんな現実に“抗おう”としているように見えたのが、この“オーケストラ・プロジェクト”だった。

公演は無事に終了し、クラウドファンディングのリターンである「当日の録音ファイル」も送られてきたところで、ボクはお礼のメッセージ(TwitterのDMで、というところもえらく興味をそそられたのだけれど)の文末に、「機会があったら話を聞きたい」というワガママなリクエストをちゃっかりと盛り込んでおいた。

DMの送信先である、クラウドファンディングの旗振り役を引き受けていた山内雅弘からは、儀礼的な返信が戻ってくるだけでも良しとしようと思っていた。だって、相手は東京学芸大学教授ですよ。ライター如きの甘言にまともな対応をする確率はかなり低いと思うのがフツーじゃないでしょうか。

ところが、である。

さすがに現代音楽の作曲家にしてクラウドファンディングにも手を出そうなどという、“人の行く裏に道あり花の山”を地で行くような人物だ。

こちらの呼びかけに応えていただくことができた。

ということで、その生い立ちから現在の活動まで、“現代音楽家という生き方”について聞いてみることにした。

♪ 音符を書くことが「カッコいい!」と憧れた小学生

撮影:富澤えいち
撮影:富澤えいち

──最初に楽器をさわったのはピアノですか?

山内 そうですね。幼稚園のころですから、4~5歳だったと思います。

──ピアノを弾くことよりも、楽譜を書くことに興味があったとか。

山内 自分でも不思議だったんですけれど、人間の興味って人それぞれなんですよね。例えば、オーケストラの演奏をTVで観たとして、ある人はトランペットを吹いてみたいと思うかもしれないし、指揮者のほうがカッコいいと思うかもしれない。私の場合は、単純にこんな曲を書きたいと思った。

──それで作曲を始めたのですか?

山内 当時習っていたピアノの先生の家に行くと、そこに先生の手書きの楽譜があって、それを見てなぜか手書きの楽譜がかっこいいと思ったんです。だから、作曲をしたいということもあったと思うけど、簡単に作曲ができる訳はないので、一番最初はそのような楽譜をマネしてただ「書きたい!」ということだったと思うんです。それがどういう感情からきているのかは自分でもわからないんですが(笑)。

──小学生のころは?

山内 鼓笛隊みたいなものがあったので、それに所属していました。いわゆるマーチング・バンドですね。そこで「オマエは大太鼓をやれ」って言われて。だから、合奏自体はそれが初体験でした。あまり真面目な生徒ではなかったですが。

──吹奏楽は……。

山内 中学になってからです。

──フルートを吹いていたそうですね。

山内 小学5年生のときに、なぜか急にフルートを吹きたくなったんです。これもさっきのオーケストラの番組を観てなにに興味をもつのかと同じように、理由は定かではありません。もしかしたら、リコーダーは縦なのに、フルートは横に持って吹くからカッコいいと思ったのかも(笑)。

ただ、親にいきなり「フルートを吹きたい!」って言っても家にあるわけではないし、レンタルで借りてくることになりました。ところが、いざ吹いてみても、息が漏れるばかりで音にならない。これは習わないとダメだということで、バスに乗って町まで出て、音楽教室に通うことになりました。小学校生活の残りの2年間を通うことになったので、中学では「吹奏楽をやるしかない」と(笑)。

──楽器のほかはどんなことに興味のある子どもでしたか?

山内 星新一のショートショートにハマって、小説を書き始めたりしていました。それで、今度は松本清張の推理小説がおもしろいと思ったら推理小説を書くようになっていましたけど(笑)。

──音楽もそうですが、受け身ではなく、作り手のほうに興味があったわけですね。

山内 そうかもしれませんね。ただ、フルートについては興味をもって始めたけれど、それを専門にしたいとまでは思わなかったですが。

──そのころ、他人が書いた譜面に対してジレンマを感じたりはしなかったんですか?

山内 それはなかったですね。合奏は合奏で喜びもありましたし。それに、楽譜が実際に音になる経験も勉強になったので。いま考えると、そういうのも作曲家に対する興味のきっかけになっていたのかもしれませんね。

──作曲家に対して最初に具体的な興味をもったのはいつごろですか?

山内 小学3年生のときに初めてウチにステレオが来たんですが、それを聴くために親がレコードを買って来たんです。それがベートーヴェンの交響曲第5番と第9番、それにドヴォルザークの新世界。

それを聴いたら、たちまち「これはすごくおもしろい!」と。ただ聴くだけでなく、半年ぐらいしてスコアというものが売られていることを知って、それを見ながらレコードを聴くというのをやるようになっていました。

──小学生とは思えません(笑)。

山内 その半年後には、自分で交響曲を書き始めていました(笑)。ただ、作曲家を意識していたというより、推理小説も書いたりいろいろな“もの作り”への興味のひとつとしてやっていたというか。だからのめり込んでいたわけではないんです。先生に習っているわけでもないのでスコアも自己流でしたからね。

撮影:富澤えいち
撮影:富澤えいち

──いつごろから音楽の道をめざそうと?

山内 高校に進学して、大学はどうしようということを意識するようになって、そもそも自分が専門にできることってなんだろうと考えるわけですよ。楽器も譜面書きも小説書きも、それを専門にしようと思ってやっていなかった。だったら「オマエはなにをしたいんだ?」と自問したわけです。そこで初めて、「やっぱり自分は音楽を専門にしたいかな」って思うようになりました。

──そうなると、音大受験のための準備をしなければなりませんよね。

山内 そうなんです。やっぱりちゃんとした先生に習わなきゃいけませんから。ちゃんと入試で求められる曲の様式とか完成度というのがあるので。

──東京藝術大学をめざすことに?

山内 最初は「いまからだと無理だからやめなさい」って周囲からは言われていました。でも、「やってみなきゃ無理かどうかわからないだろう」って思っていた(笑)。

♪ 学生時代に感じた“現代音楽の潮目”

──大学で音楽を専門に学んで、卒業後は仕事という視点で音楽に向き合わなければならなくなるわけですが、そういうことも含めて大学では学ばれたり意識したりしていたのですか?

山内 受験まではベートーヴェンを頑張って学んで、せいぜいブラームスあたりまで理解できればいいという感じだったけど、大学に入ったら「なんでもあり」になってしまった。この「なんでもあり」がいちばん困るんですよね(笑)。

撮影:富澤えいち
撮影:富澤えいち

──“昔の音楽じゃダメ”というような雰囲気があった?

山内 いや、先生はどうしろこうしろとは言わないんですよ。でも、同級生を含めて「やっぱり現代音楽スタイルじゃないとね」という前提があるわけです。だったら無調でしょう、みたいな。

──無調でいいと言われると、よけいなにをしていいのかわからない(笑)。

山内 ええ、現代音楽スタイルって一口に言っても、いろいろな作風があるから、自分ならどんな曲を書くのかというのは、自分なりにつかんでいくしかないわけです。先生だってヒントの提示ぐらいはできるけど、「キミはこれが合っている」なんて言えないでしょうし。結局はアイデンティティというか、どんな個性を音楽で表現できるかを、それぞれで考えるしかないんです。

──1970年代まではパフォーマンス・アート的なしつらえのものが主流だという認識なんですが、80年代になってから宗教的な要素が濃くなったりと、現代音楽の“潮目が変わった”と感じています。まさにその時代に学生だった山内さんは、どう思われていますか?

山内 確かに、僕よりも上の世代は、まさに前衛だったり十二音音楽が主流でした。私が大学に入ったのが1980年で、ちょうどそのころから“調性への回帰”というか、わかりやすい音楽に戻って来た。必ずしも無調じゃなくてもいいんじゃないかとかね。まぁ、だいたいやれることは出尽くしたから、あとは自分の好きなようにやっていいんじゃないかというような、ユルくなってきた部分が増えて、それは助かりました。少し年上の先輩なんかは、きれいな調性の和音を出したら「ダメ!」って言われていたみたいですから(笑)。

──エポック的なことがあったのでしょうか?

山内 1981年に吉松隆さんが「朱鷺によせる哀歌」を現代の音楽展81で初演されているんですが、それを聴いています。ポップスのような和音を使っていて、まるでNHKの「自然のアルバム」に出てきそうな音楽だったんですが、こんなにきれいな音で書いて良いのか、と逆にショックを受けました。武満徹さんもそのころにはすごく甘ったるい曲調のものを書くようになっていたし、海外の作曲家の傾向もそうなってきたんですね。もちろん、すべてが一斉に逆ということじゃなくて、それがまた困ったことでもあるんですけれど……。そういう意味では、80年代に入ると“現代音楽には大きな潮流がなくなった”という言い方ができるかもしれません。

──そうしたなかで卒業を迎えることになるわけですが、どうしようと?

山内 現代音楽の状況を見ると、作曲でメシを食っていくのは難しいだろうとは感じていました。そこで多くの人がそうするように、教える仕事に就きたいと。もちろん周囲には商業音楽の道に進む人もいました。例えば、1学年下に宮川彬良がいたし、その下には千住明や岩代太郎とかね。私も少し興味があって、池辺晋一郎先生にお願いして大河ドラマの収録に見学に行ったりしたことがありました(笑)。でも、結局はそれを自分の職業にしようとは思えなかったんです。

撮影:富澤えいち
撮影:富澤えいち

♪ 常に“なにか新しいもの”を胸に

──オーケストラ・プロジェクト2018で発表された「SPANDA~ヴィブラフォンとオーケストラのための」は、使われた楽器も特殊なもので、とても興味深く聴かせていただきました。

山内 微分音(半音の半分)のヴィブラフォンですね。あれは自分で鍵盤を加工して作った、世界にひとつしかない楽器なんですよ。

──楽器のアイデアと楽曲のアイデア、どちらが先なんですか?

山内 楽器を作るほうが後ですね。まずはヴィブラフォンとオーケストラでやろうと考えたときに、普通のヴィブラフォンを念頭に始めるわけです。そこに“なにか新しい要素を”と考えて、微分音のヴィブラフォンを加えたらおもしろいんじゃないか、という順番です。

──“なにか新しい要素を”ということが、現代音楽と大衆音楽の分け目になったりしているのでしょうか?

山内 強迫観念じゃないですけれど、常に“なにか新しいことをやらなきゃいけない”という想いは、学生時代からいまに至るまであるんです。結局は、私自身が“こんな音を聴いてみたい”ということになるんですけれど、そのためにはいままでの蓄積から抜き出してきたものの繰り返しじゃマズいんじゃないか、と。もちろん、蓄積がなければ新しいものも生み出せないわけなんですが、そこに更新できるものはないか、別のものを追加できないかと考える。

──蓄積が増えると、保守的になりそうですが。

山内 いや、その逆なんですよね。だって、どんどん若手で新鮮な発想を持った優秀な作曲家が出てきますから。これは負けられない、と(笑)。もっと新しいことに取り組まなきゃって想いは、この10年ぐらいのほうが強くなっているかもしれません。

──確かに世の巨匠と呼ばれる音楽家たちも、絶えずその時代の“新しいもの”を見つけようとしてきた。

山内 そうですよね。でも、現代音楽はその“新しいもの”が先走りすぎて、一般のリスナーから受け容れられずに乖離してしまった。ただし、この30年ぐらいは、そうした“頭でっかちな音楽”ではなくて、場合によってはポップスに近づいたりと、いまの現代音楽は良い意味で“ライト”な方向に進んでいると思います。

──日本の現代音楽シーンも、ですか?

山内 日本の現代音楽に関しては、ちょっと前までは妙に情念、それも暗いほうの情念を感じるものが多かったかもしれません。それに比べると若い世代の作品は、軽やかでポップなものが増えているようですね。

撮影:富澤えいち
撮影:富澤えいち

──“新しいこと”という意味では、オーケストラ・プロジェクト2018でクラウドファンディングを利用して自主公演開催の原資にしようという挑戦をされました。経緯をお聞かせいただけますか?

山内 この演奏会の在り方は、オーケストラから委嘱されたものではなく、作曲家たちが自分の作品を世に送り出したいという自主的な公演なんです。だから当然、すべての経費は作曲家が負担しなければならない。このプロジェクトの場合、4人の作曲家が負担する金額は、オーケストラの人件費やホール代、パンフレットの印刷代などを含めて、だいたい600万から700万円規模の予算になってしまう。つまり、1人あたり150万円以上の資金を捻出しなければ続けることができないわけです。もちろん助成金などの申請もしますが、申請すればすべて通るわけではないし、通っても希望する金額を得られることはほとんどありません。それで、なんとかしなくちゃとなったときに、「クラウドファンディングというものがある」という話を耳にして。

──やってみて、いかがでしたか?

山内 クラウドファンディングというものがどんなものかもわからずに始めてしまったのですが(笑)、運営会社から言われたのが「統計によれば出資者の3分の1は実際の知り合い、次の3分の1はその友人関係、残りの3分の1がまったく関係のない人」でした。そうなると、友だちの友だちも私たちの知らない人になるので、半分から3分の2はこのクラウドファンディングがきっかけで私たちの活動を知ることになるんですね。そういう効果があったんじゃないかと思います。

──まさにボクがそうです(笑)。

山内 友だちの友だちというかたちでだんだん輪が広がっているのを実感できて、期間中はとても感動的でした。もちろん設定した金額を達成することも重要ですが、それ以上にこの活動を知っていただくというPR効果があったんじゃないか、と。

──やってよかったと?

山内 よかったですね。

──ファンドというのは透明性が必要であり、それは山内さんがやっていることを数値化することでもあったりしますよね。数値化というとカッコいいですが、要するに値踏みされるわけですが。そのあたり、モヤモヤしたりしませんでしたか?

山内 そういう意識はありませんでした。というのも、これまでもコンサートを自腹で企画していますし、チケットを売るといっても招待の方が相当数いたりしますので(笑)。

──主催側会計のグレーゾーンをクラウドファンディングがかなり解消してくれたわけですね(笑)。

山内 それだけ“知り合いではない人”にこのプロジェクトが広がったということですよね。ただ、そういう人たちは、クラウドファンディングへ参加した時点では実際に私たちの音楽を聴いたことがない可能性も高いわけです。だから、クラウドファンディングの結果が必ずしも今回のコンサートに対する評価とイコールにはならないというところは、慎重にとらえておくべきだと思っています。

──リターンのなかに「当日の録音の進呈」(1口10,000円以上)というのがありました。これにはどのような意図があるのでしょうか?

山内 音楽というものは、基本的にその場にいなければ体験できません。それを補うものとして録音という手段があるのですが、現代音楽の場合、“初演を逃したら次にいつ聴けるかわからない”という問題が付きものだったりするのです。オーケストラ作品のような大規模なものは、特に再演が難しい。そのための記録という意味でも、出資していただいた方にリターンとして提供するのは意味があるのではないかと考えました。ただ、本当なら製品版のCDのかたちで渡したかったのですが、費用の点で“音源データまたはCDRコピー”ということになってしまって……。

──再演につなげるという希望も、クラウドファンディングで膨らんだのではないかと思うのですが。

山内 そうなればいいですね。自分でも今回とは違うオーケストラや違うホールでの演奏を聴いてみたい。演奏者が変われば作品の表情も変わるし、時間が経てば作り手の心境も変わっているはずですから。

──譜面の再現性に関する完成度が高まるということではなく?

山内 楽譜って、もともと音楽の“気持ち”を伝えるには不完全な部分があると思うんです。例えればドラマの台本でしょうか。演じる俳優さんが違ったり、演出が変われば、作者がビックリするぐらい、できあがりが違うこともあるはずですよね。1回目はここに感動したけど、2回目では違う部分に発見があったりする。小品だとそういう機会がなくはないのですが、オーケストラ作品だとなかなか2度目3度目の再演が難しい。

──演目の総量が多すぎることが原因でしょうか、それとも再現できるオーケストラが少なすぎるから?

山内 単純に、オーケストラ側のプログラムに対する考え方の問題でしょう。日本人の作曲家の作品を定期公演ごとに1曲でも入れてくれたら、だいぶ状況は変わってくると思うんですが……。

──レパートリーというか、現代音楽を得意としているオーケストラが少ないということではないんですね。

山内 日本のオーケストラの水準は高く、けっこうな要求をしてもぜんぜん大丈夫です。ただ、日本人の作品よりはマーラーやブルックナーが選ばれる、というのが現実です。

──集客の問題があるかもしれませんね。

山内 でも、1曲ぐらい紛れ込んでいても、チケットが売れなくなることはないと思うんですけどね(笑)。そういう意味でも、今回のクラウドファンディングでプロジェクトの知名度がアップして、「日本人の現在進行形の作品を取り上げてもいいんじゃないか」という気運が高まれば嬉しいです。

撮影:富澤えいち
撮影:富澤えいち