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日本の歌謡曲を日本語で歌うというアタリマエのことをジャズにするためにギラ山ジル子が仕掛けた罠

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

ジャズは“なんでもアリ”の、“自由な音楽”だと言われます。

しかし、実際に少しでもジャズに踏み込もうとすると、ちっとも自由じゃないと感じることも多かったりするのです。

それじゃまるで、「ポッキリ!」という言葉を信じて入ると、あっという間に何倍もの料金を請求されてしまう夜のお店のみたいですよね。

だから、「ジャズに興味があるんだけどなかなか(怖くて)手を出せない……」という人が、ボクの周囲からもいなくならないんじゃないかと思っているのです。

もちろん、ぼったくられないまでも、ジャズには知っておいたほうがより楽しむことが出来る独特の約束事があって、それはデジタル系のゲームにしたって隠しアイテムや必殺技を知っているのと知らないのでは局面の展開だって変わってくるし、なによりもゲームをやっている本人のワクワク度が違いますよね? それと同じ。

……と言えればいいのでしょうが、たぶんジャズのぼったくり感はそれとはちょっと違っていて、必殺技や攻略本の類いを仕入れていたとしても、解決できない問題なのだ、というのがジャズの現場で取材を続けて35年のボクの実感だったりします。

違和感のトップに位置するのは、ジャズ・アレンジは認知されているのに、ジャズにアレンジしただけではジャズと認めがたいということでしょう。

♪ ジャズが日本で我が道を歩めなかったワケ

この背景には、第二次世界大戦後の日本で、音楽を含めた娯楽や文化を刷新しなければならない状況のなか、オリジナルを重視していたことが影響していると考えられます。

戦前には、エノケンこと榎本健一の「月光値千金」や「ダイナ」のような、換骨奪胎した“和製ジャズ”がオリジナルを凌駕していました。つまり、浅草オペラとともに西欧文化から切り離した独自のジャンルが確立していても不思議がなかったのです。

しかし、敵性音楽の統制や戦況の悪化による娯楽産業の抑制といった外的なマイナス要因が重なり、独自のジャンル確立に至らないまま戦後を迎えることになります。

1950年代のジャズ・ブームが、中断した独自のジャンルの確立から手を付けずに、オリジナルを範としたのは、自然な流れだったのでしょう。進駐軍を相手にした娯楽施設では演奏者不足が深刻だったそうで、独自の音楽を追求するよりも、“アメリカのミュージシャンと同じように演奏できる”ことが優先されたことは想像に難くありません。

そこに1960年代のジャズ・ミュージシャン来日ラッシュが重なり、リアルな“アメリカのジャズ”が日本を席巻します。

こうして、ジャズが“日本的であること”によって新たなジャンルを打ち立てるまでには至らないまま、むしろ“輸入品であることの希少性”を味方につけながら、認知されることになりました。

♪ 日本語でジャズは歌えないのか?

日本では、日本語でポピュラー音楽を歌うことに尽力した人たちが存在します。そして、その成果が“Jポップ”というジャンルです。

では、日本語で歌ったジャズが“Jジャズ”として確立しているかと言えば、ほとんど“していない”というのが実状でした。

しかし、その頑なとも思えたジャズの日本語嫌いにも、変化が顕著になってきたと感じるようになったのがこの5〜6年のこと。

そのなかで、いち早く日本語とジャズの関係を意識して、その融合に取り組んできたのが、ギラ・ジルカでした。

ギラ・ジルカのプロフィールはこちら。

http://www.geilajazz.com/biography.html

ギラ・ジルカは、ジャズ・シンガーとして認知されたのがソロのデビューとなる2010年のファースト・アルバム『all Me』リリースと、キャリアの長さに比して遅かったので、ボクも“遅咲きの大輪の花が開花”という扱いで紹介した記憶があります。

しかし、実は彼女の、それも彼女が日本語をジャズにする試みに深く関係している作品に、それよりも遙か前に出逢っていたのです。

それは、五十嵐はるみが2000年にリリースした「ユー・メイク・ヒストリー」でした。

五十嵐はるみの本格デビューとなったこの作品は当時も注目を浴び、テレビ東京系の「愛の貧乏脱出大作戦」という番組のエンディングテーマになったりしていたのですが、民謡「竹田の子守唄」をベースに英語の訳詞と編曲を担当したのがギラ・ジルカだったのです。

アルバムだけでなく、発売記念ライヴでは生でもこの歌を聴き、日本の民謡が完璧にジャズ(というかゴスペルだったんですけどね)に成り得るんだと感心していたからこそ、2012年の活動20周年を記念したライヴでこの曲をギラ・ジルカ自身が歌ったときに、「あっ!」と紐付けされることになったわけです。

「日本語歌詞を英訳して歌う」というのは、ジャズ・アレンジされた曲に乗せて英語で歌うわけですから、ジャズの定義上では問題ないはずです。

ある意味で、英訳という作業が条件をクリアするための、すなわち“郷に入るための手段”として用いられると言ってもいいでしょう。

しかし、郷に入るだけでは、表現の可能性は広がりません。

郷に入るための方法論が成立するなら、その逆はどうなのか。

♪ ギラ山ジル子プロジェクトへの伏線

そこで提起されるのが、“なぜ日本語で歌ったジャズ・アレンジではジャズと認められにくいのか”という問題だったんじゃないかと思うわけです。

そして実際に、ギラ・ジルカはプロジェクトを立ち上げ、日本語でのジャズを自分の課題として温め続けていました。

その集大成として2016年にリリースしたのが、『ギラ山ジル子PROJECT one』と『ギラ山ジル子PROJECT two』という2枚のアルバム。

2017年には、5月に六本木でギラ山ジル子名義のライヴ、8月に2夜連続で2枚の収録曲全曲を実演するバースディ・ライヴを行なっています。

8月の2デイズに関しては、こちらの記事を参照ください。

怪獣のようなわかりにくい名前の解消策が、日本語の歌への扉を開けてくれた。|ギラ山ジル子PROJECT

2017年5月16日、東京・六本木クラップス。ギラ・ジルカ(ヴォーカル)、竹中俊二(ギター)、松本圭司(ピアノ)、中村健吾(ベース)、岡部洋一(パーカッション)、加納樹麻(ドラムス)。<著者撮影>
2017年5月16日、東京・六本木クラップス。ギラ・ジルカ(ヴォーカル)、竹中俊二(ギター)、松本圭司(ピアノ)、中村健吾(ベース)、岡部洋一(パーカッション)、加納樹麻(ドラムス)。<著者撮影>

日本のジャズ・ヴォーカルの歴史を振り返ると、戦後の歌謡シーンに人材を輩出した背景にジャズ・クラブが存在していたこと、美空ひばりほどの才能があれば日本語と英語を境目なく表現できるという実例があったことなどの親和性がありながらも、日本語→英語という“ひと手間”を経なければジャズにならないという“実績の欠落”が、日本語で歌うジャズの足を引っ張っていたことは否めません。

しかし、不可逆的かと思われていたこのアプローチも、こうして可逆だった実績が積み上げられています。

“和ジャズ”や“Jジャズ”とはまた違った“日本語ジャズ”は、これまで歌詞が置き去りにされがちだった日本のジャズ・シーンを変える起爆力を備えているのではないかと思うのです。

ギラ・ジルカをはじめライヴで日本語のジャズを披露する歌い手も増えてきています。機会があれば体験してみてください。

と、ここまで書いて、日本語でジャズを歌うことについて、中村八代に触れていないという、致命的なミスに気づきました。

宿題とさせていただきましょう。

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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