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ボクが好きで聴いていた80年代プログレって実はジャズが皮を被っていただけなのかもしれない

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

レヴィン・ブラザーズが来日しました。

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事前のインフォメーションでは、弟のトニー・レヴィンが大きく扱われているという印象が強かったと思います。

それも仕方のないこと、彼は20世紀を代表するプログレ・バンド、キング・クリムゾンのメンバーとして活躍。

彼が在籍した1981年から84年は、リーダーであるロバート・フリップが、ビル・ブルーフォード(ボクは“ブラッフォード”のほうが言い慣れてますけど)と始めたプロジェクトが母体となり、70年代の物語性の強い作風とは異なるポップ・ロック寄りのサウンドを展開していきました。

トニーは、エレクトリック・ベースのほかにスティック(チャップマン・スティック)を演奏、その卓越したチョップ&タップ・テクニックで当時のハイ・パフォーマンス指向のロック・ファンを魅了することになります。

この印象が強いせいか、“あのクリムゾンのトニーがジャズを”と言われても、ピンとこない人が多かったのではないかと思うのです。

それに対して、兄のピート・レヴィンのほうが、ジャズ・ファンには知られた存在だったかもしれません。フレンチ・ホルン奏者としてプロ活動を始めた彼は、当時の最新鋭楽器だったシンセサイザーもマスター、それがギル・エヴァンスの目に止まり、『プレイズ・ジミ・ヘンドリックス』(1974年)『時の歩廊』(1975年)などの作品でいまも聴くことが出来るからです。

兄弟としては、2005年から07年にかけてピートが結成した“トニー・レヴィン・バンド”にピートも参加していたようですが、その後はトニーがキング・クリムゾンの再始動やステック・メンなどの活動で忙しくなったこともあり、少し距離ができていたようです。

しかし、この間も自分たち兄弟が大好きな50年代ジャズが忘れられずに、いつかそんな雰囲気のサウンドを表現できるバンドをやりたいと、曲を書きためていたとのこと。

それから数年の準備期間を経て、彼らは意を決して“仲間”を召集、レヴィン・ブラザーズ名義のアルバムを制作します。2014年のことでした。そして、そのリリース直後から、定期的なツアーを組むようになり、ついに来日を果たすことになったというわけなのです。

こんな長々とレヴィン兄弟のバックボーンに触れたのも、ステージのオープナーがいきなりフォービートのウォーキング・テンポで、リムショットをキメたスタイリッシュな“ジャズ”だったから。

要するに、ボクがいちばん、「えっ、レヴィン・ブラザーズってジャズを演るんだ……」と、あっけにとられてしまったから、その混乱を収拾しようと慌てて調べ直したというわけだったりするのです。

それはそれとして、ドラムのジェフ・シーゲルとサックスのエリック・ローレンスというベテランのジャズメンを擁したこのワン・ホーン・クァルテットだけを観ていると、本当に自分が50年代のジャズクラブにいるかのような気分になってきました。

とはいえ、彼らが“ヴィンテージ・スタイルのプレイ”を模倣するような陳腐なステージを展開するわけはありません。

「スカボロー・フェア」やピーター・ガブリエルとケイト・ブッシュの「ドント・ギブ・アップ」のジャズ・アレンジを織り交ぜたプログラムで、トニーの経歴を知っているファンを「おっ!」と思わせる演出も。

さらに、日本の観客のために「荒城の月」までアレンジして披露するというてんこ盛りのサービスで、ハードではないもののグイグイと引き込まれる“見せ場”が連続するうちにエンディングへ。

アンコールに彼らが選んだのは、ラルフ・タウナーの代表作「イカルス」だったのですが、ここでも「なぜラルフ・タウナーなの?」と記憶の糸をたどってみれば、この曲は初出がポール・ウィンター・コンソール名義の『イカルス』(1972年)だったけれど、ゲイリー・バートンとのデュオ・アルバム『マッチ・ブック』(1975年)でのヴァージョンが有名で、タウナーは1970年代前半のバートン・クァルテットに参加していたりしていたから、同じくメンバーだったトニーとも接点があったはず(残念ながら共演している資料は確認できず)。

う〜ん、ただジャズの名曲を取り上げたり、ポップスのジャズ・アレンジをするだけではない凝った構成だったのですね。

その演奏の“肌触り”も、ボクが“80年代に追い求めていたジャズ”を彷彿とさせるものだったから、よけいに混乱が増したりもしたのです。

“80年代に追い求めていたジャズ”という言い方は、広く認識されたものではないのですが、当時はフュージョンが勢力を拡大、アコースティックなジャズの肩身が狭く、新譜を探すにも苦労するという状況だったことが背景としてあったりします。

日本でのフォービート・ジャズ人気はまあまあだったので、日本企画のアルバムが制作されたり、イタリアなどからの発掘もので“しのいでいた”というのがこの時期。

息を吹き返すのは、ブルーノート・レーベルが活動を再開する1984年以降という感じで、その前の“空白期間”に“追い求めていた”ということなのです。

ところで、ラルフ・タウナーという名前が出てきたことに別な意味でビックリしたことがありました。

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実はこのライヴを観る少し前に、たまたまビル・ブルーフォードの『If Summer Had Its Ghosts』(1997年)というアルバムを耳にして、あの“ブラッフォード”もこんなアコースティックなトリオ・ジャズをやるんだなぁと感心、これは原稿のネタになるぞとメモしていたのです。そのメンバーが、ラルフ・タウナーとエディ・ゴメスだったから、縁は異なもの……。

なにかがどこかでつながっている、という不思議な既視感を醸し出す要素が、現代のプログレ・シーンにはあるのかもしれませんね。

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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