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【JNV】モニカ・ゼタールンドは母国語という禁じ手をジャズ・ヴォーカルに持ち込んだ革命者だった

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家
モニカ・ゼタールンド『ワルツ・フォー・デビイ』
モニカ・ゼタールンド『ワルツ・フォー・デビイ』

ジャズ・ヴォーカルを取り上げて、そのアーティストの特徴や功績、聴きどころなどを解説するJNV(Jazz Navi Vocal編)。今回はモニカ・ゼタールンド。

スウェーデンでもっとも有名なジャズ・ヴォーカリストというだけでなく、北欧ジャズの原点かつ象徴ともいうべき存在なのがモニカ・ゼタールンドだ。

1937年に西スウェーデンのウェルムランド地方にあるハーグフォッシュという小さな村に生まれた彼女は、幼いころからジャズに包まれて育った。アコーディオン奏者だった彼女の父がジャズ好きだった影響からだ。ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドのアルバムを、英語もわからずにそのまま暗記して周囲を驚かせていた早熟少女だったらしい。

14歳のころには父親のステージで一緒に歌うようになり、1957年にストックホルムの有名なジャズ・クラブ“ナーレン”で開催されたコンテストで2位に入賞すると、翌年にはアルバム・デビューを果たした。これによってスウェーデン・ジャズ・シーンでも注目される存在となり、ジャズの本場であるアメリカ・ツアーも実現させたが、自分の歌うジャズと“ホンモノ”とされたアメリカのジャズとのあいだに違和感を感じて、スウェーデンでの活動に戻ることにする。

帰国したモニカは一時的にジャズ・シーンから距離をおき、演劇学校に入って演劇を学ぶ。しかし、そこでのベッペ・ヴォルゲシュとの出逢いが彼女を表現者として大きく成長させることになった。俳優や作家としてスウェーデン国内では伝説的な人物だったベッペ・ヴォルゲシュが、モニカにアメリカのジャズ・ソングをスウェーデン語で歌うための歌詞を提供するというかたちで、ふたりはクリエイティヴなパートナーシップを築いていく。ベッペ・ヴォルゲシュによるデイヴ・ブルーベックの「テイク・ファイヴ」やニック・ルーカスの「ウォーキン・マイ・ベイビー・バック・ホーム」は、スウェーデン人がスウェーデン語でジャズを歌えるということを証明したものとして高く評価されることになった。そしてモニカは、コメディ・デュオ“ハッセ・オ・ターゲ”との共演でレヴューや映画にも出演するなど、活動の幅を広げていく。

1963年には欧州放送連合(EBU)加盟放送局によって開催される毎年恒例の音楽コンテスト“ユーロビジョン・ソング・コンテスト”にスウェーデン代表として出場し「ウィンター・シティ」を歌ったが、ジャズへの偏見によって零点という結果に終わってしまう。本人は落胆したようだが、スウェーデン国内ではヒットしたので、モニカ・ゼタールンドという歌手の本質をスウェーデンの人たちは理解していたと言っていいだろう。

1964年には憧れていたビル・エヴァンスに直接交渉してチャンスを得た『ワルツ・フォー・デビイ』を制作。彼女の代表作としてジャズの歴史に残ることになった。

その後も多くのアルバムをリリースするなど活動を続けていた彼女だったが、1990年ごろから若いころの落下事故が原因と言われる脊柱側彎症が悪化して、人前に出ることが少なくなる。1997年に車椅子によるパフォーマンスという状態で、オフィシャルでは最後となるロング・ツアーを行なった。

2005年、自宅アパートの火災という不慮の事故によって非業の最期を遂げた。享年67歳。

♪Monica Zetterlund with Bill Evans Trio "Waltz for Debby"

モニカ・ゼタールンドの名前をジャズ史に残すことになった記念碑的セッションを1966年にコペンハーゲンで再現した映像。ビル・エヴァンスが示したテンポや曲調についてモニカが注文を出しているようすも写っている。

♪Monica Zetterlund- En gang i Stockholm (live)

モニカが“ユーロビジョン・ソング・コンテスト”で歌った「ウィンター・シティ」。ジャズ・バラードというジャンルがコンテストの基準にふさわしくないという理由で零点になったというが、いま聴くと普通のポピュラー・ソングのバラードにしか聴こえないのだが……。

まとめ

モニカ・ゼタールンドがこだわったのがアフリカン・アメリカンのジャズ・ヴォーカルではなく、ハリウッド・スタイルすなわち“白人金髪美人ヴォーカル”であったなら、彼女はさほど苦悩しなくてもスウェーデンのトップ・シンガーに君臨していたのではないかと思うのだが、そうではなかったところに彼女のヴォーカリストとしての本質と、ジャズを理解していたマインドが現われているのではないだろうか。

英語(しかもネイティヴな)で歌わなければジャズ・ヴォーカルではないという認識がいまもシーンには厳然とある。しかし、ジャズの概念がワールド・ワイドになってすでに半世紀以上が経っている。モニカ・ゼタールンドが始めたと言ってもいい“自分の国の言葉でジャズを歌う”というスタンスが残してくれた可能性は、まだまだ“日本語”においても手つかずのままのようだ。

2013年秋、彼女の自伝的映画『Monica Z』がスウェーデンで公開され、50万人以上の動員というヒットを記録したという。2014年11月には「ストックホルムでワルツを」というタイトルで日本でも公開される予定なので、楽しみに待ちたい。

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音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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