村上春樹の話題の新刊「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んでいるとなぜか尾崎豊が聴きたくなった。そして聴いているうちにいろいろなことが思い浮かんできた。

30年前に尾崎豊の歌を審査員としてはじめて聴いたときの衝撃!

尾崎豊が17歳(1982年)のとき、彼はCBS・ソニーレコード(現在のソニー・ミュージック・エンタテインメント)のSDオーディションに応募してきた。そのオーディションの審査員だった私は、そのとき彼のデモ・テープを聴いて、その新鮮さに、乱暴なほどのストレートな歌に、感想を求められても言葉を忘れるほど感動してしまった。そして、彼は彼とともに生きる同じ世代の若者にとってかけがえのない存在のミュージシャンになるに違いないと直感した。

オーディションからしばらく経って、彼は83年12月1日にシングル「15の夜」、アルバム『17歳の地図』でデビューを果たした。その頃、若者が純粋に自分の本音を言うとなると、すぐツッパリにロックンロールというスタイルになっていたが、彼は違っていた。

彼は17歳なりに感じる世の中に対する反発、不安…などを自分の言葉で正確に表現していた。たとえば「15の夜」では“なんて無力な 15の夜”と歌った。このフレーズには彼のやるせないパワーが凝縮されていた。デビュー・アルバムを聴いたとき、私は彼に詩人の顔を見、ミュージシャンとしての新しいタイプを見た。私はそんな尾崎を確認するために、84年3月15日、新宿のライブハウス“ルイード”で行われた彼のファースト・ライブに出かけた。業界関係者を含めた超満員の場内は立錐の余地がなかった。五百人で既に札止めになっているのにもかかわらず、それでも入りきれない人が百人以上も入り口前に並んでいた。

彼は初ステージにもかかわらず、ギターを抱え思う存分暴れまくった。最近、CDは良いがステージはそれ程でもないというアーティストが増えているが、尾崎はライブでも充分なパワーを持っていた。私は後ろの方に立っていて、身長があと10センチ高ければと悔みっぱなしだった。というのは、彼を見るためにはつま先立たなければならなかったし、つま先立つと、今度はかかとがおろせなくなってしまうからだ。後ろの人が徐々に前に出て来て、あげたかかとの下に足を入れてしまうのだ。ライブを見て、レコードを聴いて感じた彼への“興味”はよけいに強くなった。それが決定的になったのは、85年11月14日、15日の2日間、国立代々木競技場で〈LAST TEENAGE APPEARANCE〉と題された彼のコンサートだった。両日とも1万3千人の聴衆で超満員だった。このコンサートのために、他のコンサートが全てぶっ飛ばされてしまうほど衝撃的だった。

はっきり言って、最近のコンサートはどのアーティストのコンサートであっても意外性を感じない。何回も見ていると、どういう構成と演出で、どこでどういうしゃべりを入れて、どこで満足させるかが、あらかじめ手にとるようにわかってしまうからだ。だから、コンサート評なんて簡単に書けてしまうのだ。これはコンサートそのものが娯楽のためのエンターテインメントとして作られているからだろう。

ところが、尾崎のコンサートは違っていた。曲目順を事前に知っていても、どこでどういうハプニングがあるかまるで予測がつかないのだ。だから、見ている方は一瞬たりとも目が離せない。次はどうなる、その次は……という緊張感の連続で、聴き手である私たちはただステージをボオーと見ていればいいというわけにはいかない。 

尾崎のコンサートでは、聴き手としての優秀さが問われる。ボンクラな聴き手だと、その良さがわからない。ということは、これほどすごいことはないではないか。

「卒業」という衝撃的な歌が生まれた!

「卒業」という衝撃的な歌も生まれた。年齢の違いに関係なく、それぞれの青春を突きつめていけば“あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう”というフレーズにぶちあたるはずだ。ということは、「卒業」は青春の真理を、見事に表現したということになる。こんなにパーフェクトな青春ソングを歌えるアーティストは彼しかいない。だからこそ、尾崎は彼の世代の“代弁者”であり“英雄”になるはずだ、とそのとき私は確信しだのだ。

彼に対する期待感は高まる一方だった。その頃、私のインタビューに尾崎はこう答えている。

──最近、尾崎君に対する高い期待感を、どう受け止めている?

(尾崎) ぼくは、ぼくの歌を聴いてくれる人のために曲を作り歌っていきたいと思っています。それは奢った意味ではなくて、ぼくは自分の感性を信じて、自分がやりたいと思うこと、なりたいと思うところまで頑張っていきたいと思っています。とにかく走るしかない。それだけは確かです。けっこう悩みの多い仕事ではあるけれど、ぼくは全ての人を感動させたいと思っているので、もっともっと感動させるために頑張りたいですね。

その通りに、彼は全力で走って“英雄”となった。しかし、若くして英雄に祭り上げられたプレッシャーとシンガー・ソングライターの“宿命”ともいうべき、自分の身を削っての曲作りに煮詰まってしまったのだ。

彼は若くしてデビューしてしまっただけに“私小説ソング”を歌うための“ネタ”をあまり持っていなかった。また真面目すぎたために、自分の生きざまを歌にするたびに我が身を削り細らせなければならなかった。その創造の苦しみはおそらく本人にしかわからないが、その苦しみから逃れるために、彼は酒などを必要以上に求めるようになったのだろう。

“遊び”のない車のハンドルは危険なように、遊びのない人生もまた……。その意味では、尾崎はあまりにも自分の人生に対して生真面目すぎたようだ。

若者たちは尾崎豊そのものだ!

現代のここまで管理された社会の中で、俗にいう“いい子”というのは、その枠の中で生きる者に対する言葉なら、尾崎への評価は、世間から見れば“不良”ということになるだろう。だが、不良とは元来インテリジェンスにあふれた人間ではないだろうか、と私は思っている。頭が良いからこそ、現在自分が置かれている社会に疑問点を見い出して、どうにかしなければならないと思うのだ。鈍感な人間にはそんなことができるはずはない。これでいいのか?という疑問を感じ、それを対象にぶつけ、さらに自分自身に問いかける。今の自分でいいのか?と。そして、現状ではダメだという思いがふくれあがったとき、既存のレールからはみ出すことになる。つまり、不良とはインテリであり、ただの落ちこぼれという消極的な人間ではないのである。

尾崎は自分の求めるものを、また生き方を真摯に追求していたからこそ、枠の中からはみ出さざるを得なかったのだ。“高校中退”という“烙印”を持つ尾崎を「あいつは不良だから」と片づけることは易しい。しかし、彼のメッセージは若者たち自身の心情でもあるのだ。だから、そのメッセージを受け止めて、どうするのか?と自分自身に問うたとき、若者たちは尾崎豊そのものになってしまうのだ。だからこそ彼は、枠から飛び出したくてもできないたくさんの若者たちの“あらまほしき理想像”となったのである。

尾崎豊はもういない。しかし、彼が残した7枚のアルバムは若者たちの“青春のバイブル”として永遠に生き続けるに違いない。