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中国のゼロコロナ政策は本当に失敗したのか?

富坂聰拓殖大学海外事情研究所教授
(写真:ロイター/アフロ)

 デルタ株に続きオミクロン株への感染者も相次いで見つかった中国から、2年前の武漢を彷彿とさせるニュースが流れてくると、日本では中国の「ゼロコロナ政策」の限界を指摘する声が湧きあがった。

 いわゆる「ゼロコロナ政策失敗説」(以下、失敗説)だ。

 日本が中国の感染症対策を成功だと認めていたとは知らなかった――成功と認めないから「数字の改ざん」を疑ったり、代わりに台湾を持ち上げていた――が、失敗となれば大々的に扱うようだ。

 ただ、残念ながらこの時点ではまだ「失敗」と呼べる現象には至っていない。

 例えば、直近の数字だ。1月22日の感染者数は全国で56人。うち海外からの渡航者が37人であるから、同じ日に2日連続で5万人を超えた日本の状況と比べても、騒ぐほどの数字ではない。

ゼロコロナ政策「失敗」の裏に習近平への忖度?

 そもそも「失敗説」がささやかれるきっかけとなった西安市のロックダウンといくつかの混乱も、どうやら落ち着いているようで、22日のテレビでは同市から春節のため帰郷する大学生たちの様子が伝えられた。

 報道の意図は「苦労した西安の人々が普通に正月を迎えられる」アピールであり、これから本格化する春節の大移動を、中国が「普通に迎えられる」という宣伝だ。

 もちろん今年は、感染を警戒して移動を諦める人も多く、交通機関への負荷は例年の3分の1程度だといわれる。といっても大変な人数が動くことに違いなく、感染への不安が残っていれば、当局はもっと抑えたはずだ。

 こんな状況でありながら「失敗説」が駆け巡った背景には、政治的な視点がある。それは習近平がゼロコロナ政策に「執着」する「人災」という見方だ。より具体的に言えば、習近平が進めたゼロコロナ政策の「成功」を否定できない忖度政治が感染症対策を硬直化させ、変異株の特性に合わせた柔軟な対応ができなくなっているという批判だ。

中国の医療資源の不足

 だが、中国のコロナ対策のほとんどは2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の経験を経て誕生・改正された法律――ロックダウンも同じで偉い人の一声ではない――をベースにしていて、習近平がオリジナルとも言い切れない。

 そもそも中国は「ゼロ」を目標に感染対策をしているのかといえば、そうとも言い切れない。感染者を早期に発見し、その芽が小さなうちに全力で摘み取る対策が結果的にゼロにつながっているに過ぎない。目標にしているのはできるだけ早期に「日常へ回帰」することだ。

 このやり方の背後には、緒戦において一定の防衛ラインを突破されたときには大変なことになるという危機感がある。中国には医療資源の脆弱さという弱点があるからだ。

 武漢の事例を見ても明らかなように、市内の医療資源だけでは対処しきれず、全国各地から医療スタッフが救援に駆け付けなければならなかったのは典型的だ。

 つまり、中国にとって早期に強いエネルギーで抑え込むことは、いくつかの選択肢のうちの一つではなく、一択なのだ。結果的にインフルエンザより弱い感染症にロックダウンをしたと批判されたとしても、制御不能に陥るリスクを冒すことはできない、ということだ。

手厚い待遇で農民工(農村からの労働者)を都市に留まらせる

 ただ現状を見る限り、中国が費やした感染対策のコストと経済への負の影響は一応のバランスが取れていて、とりあえず緒戦で強い対策を採り、オミクロン株の正体が分かった時点でそれを修正したとしても遅すぎるという話でもない。

 少なくとも医療従事者の約2割が感染し、ソーシャルワーカーにまで感染が広がり都市機能の一部が機能しなくなったアメリカの状況と比べて「失敗」と呼ぶ根拠にはならないはずだ。

 春節の移動については、労働者側の裁量もある程度認められている。中国が採用しているのは「移動しないメリット」で誘導するやり方だ。

 年に一度、家族と集う大切な春節の帰郷を抑えようとしても、号令一下で簡単に従うわけではない。よって対策は毎年かなり手厚いものになる。

 例えば移動を諦めた労働者に支給される特別手当(概算で1日500元=約9000円で昨年より100元多い)だ。この期間だけで1万元の臨時収入になるのであれば、労働者にとっても悪い話ではない。また工場内では正月にからむ様々なイベントが催され、映画券や観劇券も配られる。工場によっては、無料の健康診断を行うところまである。また、このほか故郷の家族の元には地元政府から別途お土産も届くというから労働者側の面子もたつ。

 上からの命令で苦労するのは、むしろ農民工を雇用する企業サイドで、体力のある国有企業ならまだしも、中小企業のオーナーは泣いているかもしれない。

拓殖大学海外事情研究所教授

1964年愛知県生まれ。北京大学中文系中退後、『週刊ポスト』記者、『週刊文春』記者を経て独立。ジャーナリストとして紙誌への寄稿、著作を発表。2014年より拓殖大学教授。

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