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現役続行の鶴竜に、心から「ありがとう」

十枝慶二相撲ライター
(写真:アフロスポーツ)

鶴竜が3月場所を休場することになった。昨年7月場所から休場が続き、11月場所後には横綱審議委員会から「注意」の勧告も受け、「進退をかける」と明言して調整を続けていたが、稽古中に左太モモ裏肉離れの重傷を負い、四股も踏めない状態となったという。このまま引退も考えられたが、現役続行の意思を示している。

そんな鶴竜に対しては、「引退すべき」という厳しい声が多い。「横綱の仕事は相撲を取ることなのに、1年も休場を続けるのは給料泥棒だ」「進退をかけると言っていたのに引退しないのは潔くない」「横綱の地位を汚している」との批判が聞こえてくる。しかし、鶴竜は決して給料泥棒ではないし、潔くなくもないし、横綱の地位を汚してもいないと、私は思う。私の目には、今の鶴竜が、鋭い批判を全身に浴びながら、必死で踏みとどまり、横綱としての責任を全うしようとしているように映る。

白鵬と鶴竜が揃って休場して横綱不在となったこの4場所は、横綱が、大相撲にとってなくてはならない存在であることを改めて示した。純白の綱を締めて行う横綱土俵入りを披露し、毎日の取組の最後に横綱が登場して強さを見せつけることで、大相撲は大相撲となる。

それをだれよりも深く痛感したのは、他ならぬ休場した2人の横綱自身だろう。横綱不在の土俵を見て、横綱の責任を果たせなかった自らを責め、次の場所こそは出場しなければとの思いを強くして準備を重ねた。しかし、満身創痍の体がそれを許さない。このまま土俵に上がれば、みじめな姿をさらして、横綱を汚すことになる。そう判断して、断腸の思いで休場したのだ。5場所連続休場は、決して、あらかじめ決められた、1年間のお気楽な有給休暇ではない。土俵に上がりたいとだれよりも強く願いながら、横綱としてそうすべきではないと自らに言い聞かせ、苦渋の決断をする。それが5回も繰り返されたのだ。「給料泥棒」などと責めることは、私には到底できない。

横綱は負けても番付が下がらないからこそ、そんな特権に甘えず、休場や不振が続けば潔く引退すべき――それも一つの見識だろう。しかしそれは、横綱が3人も4人もいたり、次の横綱が確実に育っている場合の話だと、私は思う。現在の横綱は、ともに土俵人生の晩年にさしかかかった2人だけ。3人の大関が育ってはいるが、1月場所、連覇と綱取りを狙った貴景勝は黒星が先行して途中休場を余儀なくされ、朝乃山と正代はともにカド番を脱出したものの、賜盃には届かなかった。とても安心して後を託せない。近々、横綱不在という事態も十分に考えられる。そんな状況ですべてを投げ出して引退することこそ、横綱として無責任とは言えないか。

横綱の休場増は、近年に顕著な傾向だ。横綱としての休場数を調べると、1位鶴竜(217休)、2位貴乃花(201休)、3位白鵬(190休)、4位曙(166休)と平成以降に昇進した横綱が並ぶ。こうした状況は、決してたまたま訪れたわけではない。背景には、「厳しすぎる横綱昇進基準」がもたらした、今の大相撲が抱える、構造的な課題がある。

優勝経験がないまま将来性をかわれて横綱に昇進した双羽黒が、その後も優勝を果たせないまま、昭和62(1987)年暮れに引退した。その反省から、横綱昇進には「2場所連続優勝」という基準が厳しく適用されることになる。近年、やや緩和したものの、横綱が生まれにくくなったことは間違いない。「双羽黒ショック以後」の33年間で生まれた横綱は10人。「双羽黒ショック以前」の33年間では18人生まれているから、約半分に減ったのだ。優勝3回以上で横綱になれずに大関止まりだった力士は、「双羽黒ショック以前」の33年間ではゼロだが、「双羽黒ショック以後」は魁皇(5回)、小錦、千代大海、栃東(いずれも3回)と4人もいる。

横綱に昇進する人数が減れば、当然、現役の横綱の数は少なくなる。横綱は、東西に並び立つのが理想だ。「双羽黒ショック以前」の33年間で、その理想が崩れて1人横綱になったのは14場所だけだった。しかし、「双羽黒ショック以後」は1人横綱が48場所、横綱不在が2場所もある。横綱が2人揃っていても、1人が引退すれば、1人横綱になる。残った横綱にかかる重圧は計り知れない。そんな状況だからこそ、白鵬も鶴竜も、休場や不振が続き、批判の声にさらされても、横綱として土俵に上がり続けているのだ。横綱審議委員の皆さんには、そんな2人に「注意」を与える前に、こうした構造的な問題を解決するための議論をしていただきたい。

私が鶴竜の現役続行を支持するのは、まだまだ十分に横綱の責任を果たす力があると思うからでもある。

昨年3月場所、鶴竜は、千秋楽結び、白鵬と2敗同士で優勝をかけて激突した。敗れて優勝は成らなかったものの、その時点で横綱にふさわしい力があったことは疑いない。とりわけ14日目、大関取りの朝乃山との一戦で、土俵際、投げの打ち合いを制した一番は圧巻だった。今は亡き元逆鉾の先代井筒親方から仕込まれた、井筒部屋伝統のモロ差しの技能が凝縮されていた。この後、鶴竜が本場所で相撲を取ったのは、7月場所初日、遠藤に腰砕けで不覚を取った1番だけ。この相撲で右ヒジを痛めて途中休場した後は、腰の不調で全休が続き、今場所は左太モモ裏の肉離れというアクシデントでの休場だ。体さえ万全に戻れば、鶴竜にはまだまだ横綱にふさわしい強さが備わっていると考えるのが自然ではないだろうか。

万一、力が落ちてしまっていたとしても、引退を決めるのは、土俵に上がってからにしてほしい。そして、できれば正代と対戦してほしい。胸を出して育ててきた同じ時津風一門の後輩との対戦は、これまで鶴竜の13戦全勝。正代の大関昇進後は、1度も対戦がない。正代には「恩返しを」との思いが強いはずだ。

このまま引退して、鶴竜の相撲が見られなくなるのは、あまりにも寂しすぎる。針のむしろに座りながらなお、現役続行という決断をしてくれた鶴竜に、私には「ありがとう」という感謝の言葉しか浮かばない。

相撲ライター

1966年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学時代は相撲部に所属。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での約7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に「だれかに話したくなる相撲のはなし」(海竜社)

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