働き方改革を阻む小学校英語

先日の『英語教育』11月号「時評」の転載記事で気づいたが、7月号の時評を転載するのを忘れていた。掲載からだいぶ時間があいてしまったが、話の鮮度は落ちていないので転載する。

タイトルは「小学校英語は労働問題」であり、今年の2月にこちらにアップした記事と同タイトルだが、内容は大きく異なる(ほぼ書き下ろし)。

小学校英語は労働問題

教科化が決まり、そのあり方が大きな話題となっている小学校英語。盛り上がりの反面、議論がひどく偏っていると感じる部分がある。それは、労働面に関する議論の欠如だ。

本誌の先月号(『英語教育』2017年6月号)もそうだったように教育誌では小学校英語の特集が頻繁に組まれている。英語教育系の学会・研究会でも小学校英語のワークショップは目白押しだ。これほど多くの人が議論に参加しているにもかかわらず、労働問題に触れる人はほとんどいない。「どう指導を行うべきか」「どんなプログラムが望ましいか」というハウツーの話ばかりである。

「小学校英語は労働問題」と聞いてもピンと来ない人もいるかもしれないが、ごく単純な話である。以下の5つの現状認識を前提にすれば、労働問題であることは必然的に導ける。

  1. 今後の小学校英語で主たる役割を担うのは(現在と同様に)学級担任である。
  2. したがって、担任の研修が成功の鍵を握る(逆に、研修が不十分ならば失敗に終わるだろう)
  3. 小学校教員は概して英語指導経験が少ないため、研修(その大半が自己研修)に膨大な時間が必要である。
  4. 小学校英語(特に教科)は初めての試みであり、授業準備に膨大な時間を要する。
  5. 小学校教員(とくに学級担任)は、現時点ですでに、非常に多くの業務を抱えており、多忙である。

上記のいずれについても異論を差し挟む人は稀だろう。これら常識的な前提からほぼ自動的に次の結論が導ける――「研修・授業準備に要する膨大な時間を確保するために、現在の過重な業務負担を大幅に軽減しなければならない」。

新たな業務を担当させるのならば、その分だけ他の業務負担を軽減しなければならない。労務管理の常識である。しかし、この常識はなぜか小学校英語では「非常識」である。なぜなら、教科化と引き換えに業務負担を軽減しようとする案は、計画すらされていないからだ。

負担軽減は、「人を増やす」とほぼ同義である。だが、教員の人件費はますます削られるばかり。おまけに、2020年からは教科化の影響もあり授業時間が1コマ増えるのである。一人一人の仕事量を減らそうという「改革」はまったく聞こえてこない。

この状況は今に始まったことではない。およそ10年前、外国語活動必修化の時も、担任の負担を軽減せず、既存の業務に上乗せする形でスタートしたからだ。その意味で、この教育改革は、教員の労働条件の観点から言えば、近年まれに見る教育「改悪」だったことは間違いない。

ただ、幸か不幸か、こうした教育改悪が現場に壊滅的なダメージを与えたという話は伝え聞いていない。これは何より、小学校教員が自分の時間を削って、新しい教育内容に対応すべく必死に努力した結果だろう。

こうした自己犠牲の態度を「教員のプロ意識」などと賞賛する学者・行政関係者もいるが、「まあ、ヨイショしておけばいいだろう」という態度に見えてしまう。自己犠牲を強いるのは、要は、教員の労働力・時間の搾取に過ぎないのだが、それを「プロ意識」のような美辞麗句で粉飾しているからだ。

教科化で劇的な成果が期待できるなら、まだ納得できるかもしれない。しかし、「劇的な」効果を主張している人はほぼ皆無。文科省や推進派の学者ですら「そこそこの効果」を訴えるのみだ。「過度の期待は禁物」と過熱化に釘を刺す「良識派」すらいる。ということは、「そこそこの効果」と引き換えに教員の労働環境を犠牲にするという宣言だ。この業界では「子どもが第一」というスローガンが幅を利かせている。概ねそうであることは間違いないが、この問題に関して言えば優先順位の付け方が根本的におかしい。

2016年は過労死・過労自殺が大きな社会問題となった。国をあげた働き方改革が叫ばれる中、教員の労働も例外ではない。文科省が4月28日に結果を発表した「2016年度教員勤務実態調査」によれば、小学校教員の33.5%が過労死ラインにある(部活動負担のない小学校教員ですら3割を超えているのだ)。教育研究者の間でも、教員の残業に上限を設置する法整備を求める運動が始まっている(「教員にも時間外上限を」東京新聞2017年5月2日夕刊)。

今こそ、学界や教育界は(そして本誌も)、英語教育における労働問題を正面から議論すべき時ではないか。