大修館書店『英語教育』(2016年7月号)に、「小学校英語必修化決定から10年」と題するコラムを寄稿した。

1ヶ月が経ったので、その下書きをこちらに転載したい(下書きのため出版されたものとは細部が異なる)。

小学校英語必修化決定から10年

今年は小学校英語政策にとって節目の年である。中教審の外国語専門部会による小学校英語必修化に関する答申(2006年3月)から10年が経ったからである。答申の結果、全公立小に外国語活動が導入され、その後の小学校英語教育が決定づけられたことを私も昨日のことのように覚えている。現在、教科化という新たな段階に進んでおり、現在進行中の問題でもあるが、10年という歳月を考えれば、歴史の一部になりつつあることも事実である。

必修化当時こそ冷静な議論が困難だったとはいえ、「歴史化」しつつある今こそ、冷静な検証が求められる時だろう。いや、もっと直截に次のように言うべきか――当時、英語教育学者の小学校英語教育政策への関わり方には、学問的にも政治的にも不健全な部分が多かった。今こそ、この負の歴史を大いに反省し、きちんと総括すべきである、と。

エビデンスの質の低さ

最大の問題がエビデンス(=特定の政策の効果を示す科学的根拠)の質である。というのも、エビデンスベーストアプローチ(EBA)の基準から見るときわめて質の低いエビデンスに基いて必修化が決定されたと言わざるを得ないからである。

私がこのように厳しく評価せざるを得ない根拠は、昨年書いた論文で詳しく論じている(寺沢拓敬 2015 「英語教育学における科学的エビデンスとは?―小学校英語教育政策を事例に」『外国語教育メディア学会中部支部外国語教育基礎研究部会2014年度報告論集』)。本稿ではその要点だけを述べておく。

エビデンスと一口に言ってもその信頼度には大きな幅がある。たとえば「授業参観で子どもたちがみな活き活きしていて感激してしまった」といった類の根拠にはほとんど価値を置かれないが、一方、「無作為に抽出した対象者の英語力を信頼度の高い方法で測定し、さらに種々のバイアスを統計的に排除することによって得た因果的効果」であればきわめて良質のエビデンスとされる。しかし、必修化(あるいは英語教育の早期開始)の根拠として英語教育学者が引用したエビデンスには、後者のようなものはほとんどなかった。

研究デザインの問題

もちろん早期英語の効果がまったく検証されなかったわけではない。むしろ多数の調査研究が主として推進側の研究者によって行われてきた。たとえば、日本児童英語教育学会は80年代というかなり早い時期から早期英語経験者と非経験者の追跡調査を行ってきた。

しかし、残念ながら、一連の研究で得られたエビデンスの質は決して高くない。詳細は上掲論文を参照されたいが、いずれにも研究デザインの点で大きな問題があり、EBAで求められる基準をクリアしている研究はない。たとえば、調査対象者が恣意的に選ばれている点、終局的・長期的アウトカムへの考慮を欠く点、擬似相関の可能性を無視している点などである。仮に80年代から関係者が一丸となって上記の点をクリアする研究を行っていたとしたら――。30年後の今、有益なエビデンスに基いた政策判断が可能となっていたかもしれないと思うと残念である。

支援者と評価者

多くの研究者が「現場の支援者」と「政策評価者」という二重の役割を担っていたことも良質のエビデンスの蓄積を阻んだ。もちろん支援も政策評価も研究者の重要な仕事だが、以下の二点において両者は独立して行われるべきものである。

第一に、中立性の問題である。研究者が支援者として参加した場合、その学校の成果の少なくとも何割かはその研究者の功績となる。こうした環境下での政策評価は明らかに中立性を欠いており、本来ならば評価のみに専念する研究者をもう一人立てるべきである。

第二に、調査リソースの配分の問題である。支援者による評価者の兼任は、要は支援の「片手間」で行う政策評価である。このような評価が果たして信頼できるだろうか。政策評価もきちんと予算・時間・手間をかけて初めて可能になるものであるにもかかわらず。

残念ながら、「必修化」以前に行われてきた調査研究のほぼ全てが、支援と評価という二つの役割があいまいなままなされたものであり、その結果信頼に足るエビデンスの蓄積を阻んでしまったのである。

歴史を振り返り未来へつなぐ

今後よりよい英語教育政策を構想する上で、必修化をめぐる負の歴史を真摯に受け止めるべきである。少なくとも、適切なデザインで調査を行う、支援者の報告を安易にエビデンスと見なさないという2点は最低限の条件である。