Yahoo!ニュース

東京マラソンで日本新ペースに挑戦する設楽悠太。日本記録保持者、高岡寿成の語る設楽の可能性とは?

寺田辰朗陸上競技ライター
昨年の東京マラソンの設楽悠太。初マラソンながら前半を驚異的なペースで飛ばした(写真:田村翔/アフロスポーツ)

 こちらの記事で紹介したように、東京マラソン(2月25日開催。都庁スタート、東京駅フィニッシュ)は、3つのペース設定が予定され、そのうち2つは日本記録(2時間06分16秒)を上回るペース。一番遅い設定でも後半を持ちこたえられれば、2時間6~7分台が望める。

 特に前回、初マラソンながら中間点を1時間01分55秒と、日本記録の中間点を30秒以上上回るタイムで通過した設楽悠太(Honda)への期待が大きい。昨年9月には、ベルリン・マラソン(2時間09分03秒で6位)を走る1週間前にハーフマラソンで1時間00分17秒の日本新をマークした。昨年以上に速いペースで走る可能性もある。

 設楽が前半を速いペースで飛ばすことができるのはなぜか。そして日本記録保持者の高岡寿成(現カネボウ監督)は、設楽の可能性や自身との共通点、相違点をどう見ているのだろうか。

日本記録を狙う? 狙わない?

 記者泣かせの選手かもしれない。

 設楽は1月22日の東京マラソン出場選手発表会見に出席し、目標として「2時間06分10秒」と日本記録更新を掲げた。ところが2週間後の丸亀国際ハーフマラソン(日本人トップの2位も、後半の向かい風が強くタイムは1時間01分13秒)のレース後には「東京マラソン(のタイム)はこれくらいで、とはまったく考えていません」とコメントした。日本新を狙うことと矛盾しているように見えるが、どちらも設楽のなかでは両立している要素だと推測できる。

 推測の根拠を書く前に、設楽の特徴に触れておくべきだろう。設楽らしさが最も現れるのはニューイヤー駅伝だ。最長区間の4区を入社1年目から4年連続で任され、区間賞を3回獲得している。個人種目のように集団で走る状況ではなく、後方から自分のペースで追い上げる展開が合っているのだ。

「人のペースに合わせたり、競り合ったりするのは嫌いなんです。僕は自分のリズムで走りたい。ゴールまで計算して走ることはしません。そのために(4区は)スタミナもないと走れませんが、自信と攻めの気持ちが必要です。そこだけは誰にも負けていないと思います」

 前回の東京マラソンの設楽は、下の表のような超ハイペースに挑んだ。

公表されているデータをもとに筆者が作表
公表されているデータをもとに筆者が作表

 2分58秒設定の第2ペースメーカーが、第1ペースメーカーにつられて一緒に走ってしまった。設楽や井上大仁(MHPS)ら数人がペースメーカーなしで走る展開になったが、それが設楽の特徴を引き出した。ペースメーカーがいれば中間点は1時間02分30秒前後になったが、設楽の中間点は1時間01分55秒と大幅に速くなった。

「感覚で行った結果で、そうなりました。後半潰れてもいい、っていう気持ちで走っていましたね。だからといって、具体的に1時間1分台で行こうと考えていたわけではありません」

 マラソンと駅伝は別と考える設楽だが、ニューイヤー駅伝4区と同じ走り方では? と質問すると、「そう言われれば似ている感じもします。計算しない、というところは共通ですね」と認めた。

 マラソンで、日本記録を出したくないわけではない。質問されれば「日本記録を出したい」という答えになるし、世間へアピールすることも重要という判断も働く。メディアへの受け答えはクールだが、ファンを大切にする姿勢は大事にしてきた。昨年のニューイヤー駅伝ではタスキを受け取った直後に、沿道のファンに向けて手を突き上げて走り出したこともあった。

 世界で活躍する選手になりたい気持ちも、当然ある。結果として「世界に挑戦するために攻撃的な走りをする」というのも事実だ。

 だが、設楽の走りの一番の根元は、自分が走りやすいリズムで走る、という感覚的なところだろう。「記録は考えていない」というコメントが出てくるのは、そのためだ。記録を考えていないというより、自分の感覚で飛ばすことを意味している。設楽がその走りをすれば、日本記録以上のペース(前回記事で紹介した3分切りのペース)になるのは明らかだ。

高岡が目指していたのは3分切りではなく3分00秒ペース

 では、現日本記録保持者の高岡寿成(現カネボウ監督)は、どんな感覚で2時間06分16秒を出したのだろう。高岡は当時3000m、5000m、10000mの日本記録を持つ、国内ナンバーワンのスピードランナーだった。

 日本記録を出した2002年10月のシカゴは、自身2度目のマラソンだった。初マラソンの2001年福岡国際から10カ月後。福岡では2時間09分41秒で3位(日本人2位)の成績だった。

「目標だった初マラソン日本最高(当時は2時間08分53秒)は出せませんでしたが、サブテンはクリアして2時間10分を壁と思わなくてすんだので、福岡も失敗ではありませんでした。最大目標は2004年アテネ五輪のメダルでしたが、そこから逆算して2度目は海外でマラソンを経験すること、世界のトップ選手に挑戦することを目的にシカゴに臨みました」

 当時の世界記録保持者、ハリッド・ハヌーシ(米国)らと3分切りのペースで走り、中間点は1時間02分29秒で通過。前回東京の設楽より34秒遅いタイムだったが、後半も35kmまで5km毎14分台(3分切り)を維持できた点が日本記録の35秒更新につながった。2時間06分16秒(3位)は当時の世界歴代4位!! 日本人では初めて、1km平均3分00秒を切るスピードで走りきった。平均時速20kmを上回ったのだ。

 実は高岡が目指していたのは、3分切りではなく3分00秒ペースだった。そのペースで走りきり、レース中盤でも終盤でも、どこかでプラスが生じれば世界記録(2時間05分38秒)も狙えたのだ。当時の3分00秒ペースは、今の3分切りペースに相当する。

 高岡が自身のベストレースに挙げるのは、日本記録を出したレースではない。2時間07分秒41秒のセカンド記録日本最高タイムで優勝した2005年2月の東京国際(東京マラソンの前身大会)である。

「25kmから35kmまでを目指していた1km3分00秒ペースで完璧に押して行くことができ、外国勢を引き離しました。40kmまでも15分18秒ですから、あの上りを考えたら3分00秒ペースを維持できたと言えます。僕は坂に強いんです(笑)」

 アテネ五輪選考の2003年福岡国際は、平和台競技場の取り付け道路の緩やかな上りで、優勝した国近友昭(エスビー食品。現DeNA監督)と2位の諏訪利成(日清食品。現コーチ)に引き離された。2時間7分台で3人が走った史上最高レベルの代表選考レースで、高岡はマラソンでの五輪出場の道を断たれた。そのときの悔しさを、ジョーク半分に何度も話している。

2003年福岡国際マラソンで2時間7分台を出した3選手。左から2位・諏訪利成、優勝・国近友昭、3位・高岡寿成。国近と諏訪、そして2003年パリ世界陸上5位の油谷繁がアテネ五輪代表に選ばれた<筆者撮影>
2003年福岡国際マラソンで2時間7分台を出した3選手。左から2位・諏訪利成、優勝・国近友昭、3位・高岡寿成。国近と諏訪、そして2003年パリ世界陸上5位の油谷繁がアテネ五輪代表に選ばれた<筆者撮影>

高岡の3分切りペースの価値

 では、シカゴで3分切りのペースに挑戦した理由、挑戦できた背景は何だったのだろう。日本記録を出した2年後にもシカゴに出場し、そのときは5kmの入りが14分25秒と、2017年東京の設楽・井上の14分31秒、1987年福岡国際の中山竹通の14分35秒、1999年東京国際の高橋健一(富士通・現駅伝監督)の14分38秒を上回り、日本人マラソン5kmスプリットの最速タイムで通過した。

「2002年は、その年4月のロンドンでハヌーシが世界記録を更新していましたが、その前の世界記録はハヌーシがシカゴで出していました。どうせ海外を走るなら、世界記録が出た大会を走りたい。スピードにはそれなりに自信を持っていましたし、練習もできていました。30kmを1時間28分56秒で通過したとき、『あと31分でいいんだ』というメンタル面の余裕がありました」

2004年のシカゴ・マラソン。高岡は最初の5kmを14分25秒という驚異的なペースで入った<筆者撮影>
2004年のシカゴ・マラソン。高岡は最初の5kmを14分25秒という驚異的なペースで入った<筆者撮影>

 40kmを2時間00分00秒で通過すれば、藤田敦史(富士通。現駒大コーチ)が持っていた2時間06分51秒更新は間違いない。マラソン以外の種目の日本記録はすべて更新されたが、10000m27分台9本の最多記録は今も破られていない。10km31分は、精神的にまったくストレスに感じないタイムなのだ。

 高岡の余裕は、スピードに裏打ちされたスタミナ面の余裕でもあった。国内トラックレースでも、スタートからアフリカ選手のハイペースに日本人でただ1人食い下がっていた。途中で引き離されても大きなストライドで落ち幅を最小限にとどめ、日本人トップ集団に追いつかせなかった。“スピード+粘り”が高岡の一番の特徴で、トラックを走りながらそういった部分を強化できたことが30歳を過ぎてからのマラソン進出を可能にした。

 目指していたのは3分00秒ペースだったが、3分切り(今なら2分55秒ペースに相当するだろうか)にチャレンジできる要素を、その時代に持っていた。驚異的であり、まさに時代を先取りした選手だった。

高岡は作り上げた3分00秒ペース

 高岡がシカゴで実現させた3分切りの走りは、設楽が昨年の東京で見せた“感覚”優先の走りとは対照的だった。

 当時32歳。高岡が自身初の日本記録(5000mの13分20秒43)を出した10年後だった。最初の日本記録は龍谷大4年時で、箱根駅伝の20kmを走り切る自信がなかったため関西の大学に進んでいたが、俗に言う“出ちゃった記録”と言えた。自身の記録を更新するのに6年の歳月を要し、さらにこだわった10000mの日本記録更新は、その3年後の2001年5月だった。

 だがカネボウ入社後はいずれマラソンを走るつもりで、何をすべきかを考えて取り組み続けた。当時のカネボウ・伊藤国光監督(今年2月からJFEスチール監督)は2001年12月の福岡国際のとき、「高岡は初マラソンですが、初マラソンではありませんから」と名言を残している。

 洛南高3年時に全国高校駅伝4区区間賞はあったが、個人種目の全国大会には縁がなかった選手。それでも「記録にこだわり続けて」きたスピードと、1996年アトランタ五輪以降は走る距離も徐々に増やし、マラソンでやりたかった3分00秒ペースの走りを作り上げた。

 マラソンの日本記録更新は、もう少し経験を積んでからと高岡自身も予測していたが、2度目のマラソンで日本記録を出す下地は間違いなく持っていた。

 2002年シカゴのペース設定は中間点が1時間02分45秒(1km換算2分58秒)。それを前述のように1時間02分29秒で通過した。高岡は28km付近で集団から抜け出し、ハヌーシに抜かれた40kmまで独走した。高岡の作り上げた3分00秒の走りは、3分切りのペースにも対応できた。一定の速さで機械的に走り続ける走りではなく、柔軟性や強さを持った3分00秒の走りを長い年月を費やして作り上げたからだった。

そして日本記録保持者は2時間5分台を予測

 設楽が“感覚派のスピードランナー”とするなら、高岡は“作り上げたスピードランナー”である。それでも高岡は、自身と今の設楽の共通点を指摘し、日本記録を期待ができるという。

「マラソン練習をしているなかで“力になっているな”と感じられる自信が1回目は薄いのです。どんな選手でも不安を持って初マラソンを走ることになりますが、そこでサブテンで走れば失敗ではありません。設楽君もそこができて、2回目のベルリン(昨年9月)に独自の調整法で自己記録を更新しました。レースパターンは東京ほど前半を思い切って行きませんでしたが、雨の影響もあったと聞いています。駅伝を見ていても中盤の苦しい局面で、落ち幅を最小限に抑えられる。センスを感じますね。マラソンは2回失敗しなかったことで、さらに後半を耐える方法がわかってきているはずです。僕とまったく同じではないと思いますが、3回目のマラソン、マラソン練習も3回積み重ねたことで自信となる部分も積み上げられている。2時間05分36秒を出す可能性はあると思っています」

 高岡がいきなり、細かいタイムを出してきた。1km3分00秒で42.195kmを走りきれば、2時間06分36秒になる。それを1分上回る、ということだろうか。それとも自身の日本記録より、設楽なら40秒速く走るという第六感が働いたのだろうか。あるいは2分58秒ペースなら2時間05分20秒だが、30kmを過ぎて徐々にペースダウンするという予感だろうか。

 いずれにしても、日本記録保持者の“感覚”では、東京マラソンで日本記録が出る。

陸上競技ライター

陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の“深い”情報を紹介することをライフワークとする。一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことが多い。地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。

寺田辰朗の最近の記事