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「総理の挨拶文」が問うメディアの見識

立岩陽一郎InFact編集長

「のりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたため」と「政府関係者」が説明した菅総理の広島での被爆者慰霊の式典での挨拶読み飛ばし。しかし、その説明は虚偽だった疑いが強まっている。それを暴いたのは広島で子育てをする1人のフリージャーナリストだった。

ジャーナリスト宮崎園子の「総理の挨拶文」

10月1日の朝早く、私が編集長を務めるInFactの記事がネット上を駆け巡った。タイトルは「総理の挨拶文」。サブタイトルは「のり付着の痕跡は無かった」。朝6時半に「上」が出て、それから間もなくして「下」が出た。アクセスを競うこともない弱小オンラインメディアの記事は瞬く間に拡散した。これがその記事だ。

取材・執筆は宮崎園子さん。この7月まで出生地の広島で朝日新聞記者として取材をしていた。東京への転勤を打診されたのを機会に退社し、以後、子育てをしながら被爆地・広島にこだわってフリーランスとして取材を続けている。

私との付き合いは10年以上になる。互いに大阪で司法記者クラブに在籍していた時からだ。宮崎さんは単に優秀な記者という説明では語れない。どんな偉い取材先にもおもねることなく是々非々で取材する姿と、誰もが気づかない話を掘り下げる取材力が印象に残っている。

その宮崎さんが「ご相談したいのですが、お話しできないでしょうか」とメッセージを送ってきたのは9月22日。それがこの記事の内容だった。直ぐにやり取りが始まった。その記事の詳細はInFactで確認して欲しいが、広島の被爆者慰霊式典で菅総理が挨拶の一部を読み飛ばした点を掘り下げていた。宮崎さんは実際に、その挨拶文の現物を確認したという。その写真を何枚も送ってきた。

「挨拶文、美しいの一言でした。『いい仕事』、実に丁寧な仕事でした」

そして言った。

「のりが付着している痕跡は有りませんでした」

「え?」と思って頭の記憶を8月6日に戻した。菅総理が挨拶を読み飛ばしたことは直ぐに問題となり、菅総理は謝罪。ところが、その日のうちに、読み飛ばしの原因は挨拶文に付着したのりだったと報じられた。共同通信は「首相の原稿、のりでめくれず 広島式典の読み飛ばし」との記事を配信している。

読み飛ばしの原因を「のり」としたメディアの報道

記事では、「政府関係者」なる主語を使って、「原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたためだと明らかにした」と報じていた。そして、「『完全に事務方のミスだ』と釈明した」とも。

また、こうも報じている。

「つなぎ目にはのりを使用しており、蛇腹にして持ち運ぶ際に一部がくっついたとみられ、めくることができない状態になっていたという」

これが事実ではないことを宮崎さんは自分の目で確認した。何枚も写真を撮っており、その緻密な説明に疑問を挟む余地は無かった。

目だけではない。宮崎さんは実際に挨拶文にも直に触っている。その結果、のりの付着した痕跡の無いことを確認している。「めくることができない状態」ではなく、はがした痕跡も無かった。

それだけではない。宮崎さんはその日の総理の日程を確認し、広島市に更に取材している。そして「政府関係者」を含めて誰からも挨拶文の状態を確認する問い合わせの無かったことも明らかにした。

では、この「政府関係者」は何を根拠に「のり」だの「事務方のミス」だのと口にしたのか?虚偽の情報をリークしたと考えるのが自然だろう。

ここで1つ明確にしたい。この記事を出した私たちは、「読み飛ばし」を問題にしているのではない。間違いは誰にでも有る。その原因を「のり」とし「事務方のミス」としたその姿勢を問うているものだ。虚偽の説明による責任転換など、国のリーダーでなくても許される話ではない。

問われる「政府関係者」報道

当然、そうした情報をリークした「政府関係者」にも問題はあるが、寧ろ問題なのは、情報を鵜呑みにして報じたメディアにある。確認をしたのだろうか?宮崎さんの取材に対して、広島市は政府からもメディアからも挨拶文の状態について問い合わせが無かったことを証言している。

つまりメディアは「政府関係者」が言ったことをその真偽を確認せずに報じた可能性が極めて高い。付言すれば、菅総理を擁護する虚偽の情報を政府に言われるままに流した可能性が高いということだ。

思えば、日本のメディアの報道には「政府関係者」「政府高官」「党幹部」などといった根拠不明な主語が散見される。そして政府与党を擁護する情報が発信される。その真偽が問われることはない。今回も仮に宮崎さんが取材をしなければ、「読み飛ばし」の原因は「のり」であり「事務方のミス」として終わっていたはずだ。

この匿名情報源は、世界のメディアの常識では、実名にすることで情報源に極めて大きな不利益が生じる時に利用が認められているというものだ。アメリカでは、必ずその理由の説明が求められる。では、この「のり」だの「事務方のミス」だのが実名で報じられて、この情報源にどのような不利益が生じるのか?それも不明だ。

しかしメディアはまだ挽回できる。この問題に向き合い「総理の挨拶文」の実態を報じるべきだ。勿論、宮崎さんに書いてもらうのも手だろう。絶対にしてはいけない日本のメディアのお家芸がある。それは黙殺だ。事実を闇に葬ってはいけない。政府が仮にそうしようとしても、メディアがそれに加担してはいけない。

InFact編集長

InFact編集長。アメリカン大学(米ワシントンDC)フェロー。1991年一橋大学卒業。放送大学大学院修士課程修了。NHKでテヘラン特派員、社会部記者、国際放送局デスクに従事し、政府が随意契約を恣意的に使っている実態を暴き随意契約原則禁止のきっかけを作ったほか、大阪の印刷会社で化学物質を原因とした胆管癌被害が発生していることをスクープ。「パナマ文書」取材に中心的に関わった後にNHKを退職。著書に「コロナの時代を生きるためのファクトチェック」、「NHK記者がNHKを取材した」、「ファクトチェック・ニッポン」、「トランプ王国の素顔」など多数。日刊ゲンダイにコラムを連載中。

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