61年前、沖縄の基地問題への懸念をアメリカ政府に伝えていた日本政府代表がいた
9月30日に投開票が行われる沖縄県知事選挙は、アメリカ軍普天間飛行場の辺野古への移設問題を事実上の争点としている。私は独自に約60年前のアメリカ政府の公文書を入手。そこには日本政府とアメリカ政府で、どのようなやり取りをしていたのかが克明に示されていた。膨大な資料から、沖縄にアメリカ軍が集中した理由などを読み解いた。
アメカの公文書に残されていた日本政府代表の発言
「琉球の問題について2点挙げたい」
入手した文書に、そう書かれていた。それは1957年6月に行われたアメリカ政府高官と日本政府高官との会談を記録した議事録だ。そこに、冒頭の言葉が記載されていた。日本政府代表がアメリカ政府代表に向けて語った言葉だ。それは次の様に続く。
「1点目は、日本に10万人の(琉球の)出身者がおり(琉球の)居住者は日本人であること。それ故、この問題は琉球だけの問題ではなく日本人9000万人の問題であること」
「琉球」が主に今の沖縄県を指していることは説明するまでもない。発言が有ったのは1957年6月21日だ。勿論、原文は英文であり、ここに紹介するのは全て筆者の訳であることは断っておく。
当時、沖縄はまだアメリカ政府の施政権下にある。それでも、この日本政府代表は、沖縄の問題は日本の問題だと主張している。
そして発言は次の様に進む。
「2点目は、(琉球の)土地の希少性」
沖縄の「土地の希少性」とは、アメリカ軍が軍事施設を拡張している現状への懸念を示したものだ。発言は次の様に続く。
「もし土地が軍事目的で求められるとなると、代わりに使える土地を見つけるのが困難となる。琉球の人々の感情に配慮して対応してもらいたい」
1957年と言えば、終戦から12年。1950年に勃発した朝鮮戦争は休戦を迎え、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して、日本は主権を回復している。しかし、アメリカの存在はとてつもなく大きい。その中にあって、当時の日本政府の代表がアメリカ政府に向かって沖縄の人々の思いを示した発言が有ったことにいささか驚かされた。
アメリカで入手した公文書
この公文書を含めて一昔前の電話帳ほどの厚さになるアメリカ政府の公文書が手元にある。何れも1950年代の在日アメリカ軍をめぐる当時の状況が書かれたもので全て機密指定が解除されており、手続きで誰でも入手できる。入手先はアメリカのメリーランド州にある国立公文書館だ。
文書から、アメリカ政府が日本本土にあった在日アメリカ軍を、琉球つまり沖縄に移すことにかなりの力を傾注していたことがわかる。具体的に見ていこう。
1957年7月10日に作成された国防長官のためのメモランダムには、北海道から九州までに展開していた当時の在日アメリカ軍の状況が以下の様に書かれている。
陸軍:27500人
海軍:8740人(加えて船上に2760人)
空軍:49250人
海兵:13400人
これについて、「40%から50%の削減」を目指すとしている。
1950年代、アメリカ軍を日本本土から沖縄へ
ところが、そこで削減された部隊は、アメリカ本国へ戻すということではなかった。その行き先として既に沖縄が想定されていたからだ。
この時期の公文書には、「Troop Build-Up, Okinawa(沖縄のアメリカ軍増強)」というタイトルのものが多くなる。アメリカ軍を日本本土からアメリカが施政権を有する沖縄に移すための作業についての言及だ。
1954年10月6日、当時の米極東司令部が米国防長官に対して送った文書を見てみたい。そこで、日本本土から沖縄に海兵隊を移駐させるための費用の計算が出ている。8150万ドルかかると報告している。当時の1ドル=360円換算で293億円余りだ。かなり大きな金額だろう。
興味深いのは、同じ規模の陸軍を移設するよりも3000万ドル(約108億円)多くかかると試算している。その理由として飛行部隊の整備が挙げられている。
ただ、このコストの中には、土地の取得費が含まれていないようだ。それを示す金額の掲載が無いからだ。別の公文書には、住民の立ち退きに必要な経費を琉球政府に対して「150万ドルを上限に」準備すると書かれている。5億4000万円といったところか。これが土地取得のための費用なのかは判然としない。仮にそうだとすると、海兵隊の移設全体にかかる費用から見ると、かなり小さな額に見える。この文面から判断すると、アメリカ政府は土地取得にはあまりお金をかける意識は無かったようだ。
ただ、アメリカ政府も、土地の取得に関して沖縄の人の反発を懸念していたようだ。この10月6日の文書の中に、次の様な記述を見つけた。
「この(移設)プロジェクトに関わる土地の取得について、地元政府(当時の琉球政府と思われる)にとって、(沖縄の)島には同じ状況の代替地が存在しえない農地から(地元の)農民を立ち退かせるという厳しい問題をつきつけることになる」
その反発はあくまでも琉球政府に向かうというのがアメリカ政府の考えのようだが、アメリカ政府が海兵隊の移設に伴って、住民の立ち退き問題が生じることを認識していたことは間違いない。また、限られた沖縄の土地の中で、農民が他に農地として使える土地が無いことをアメリカ政府が認識していたことも興味深い。
では、なぜ、こうしたアメリカ軍の沖縄県への配置転換は進められたのか。米国防次官から米軍の制服組トップの統合参謀本部議長に送られた1957年5月29日付の文書には、「講和条約に署名をした1952年(筆者注:条約署名は1951年)以降、日本(本土)に急激なナショナリズムが醸成されている」とした上、日本本土での反基地感情の高まりを受けて在日米軍の縮小を検討する必要が有ると伝えている。
こうした日本本土の意識変化と本土への復帰が遅れた沖縄の置かれた状況が、沖縄へのアメリカ軍の配置転換を促したということなのだろうか。
日米外交史が専門で、沖縄のアメリカ軍基地の成立を公文書の分析で明らかにしてきた沖縄国際大学の野添文彬准教授は次の様に話した。
「日本本土からアメリカ軍を減らすという判断は、日本側の要求として強くあり、それに押される形でアメリカ政府も応じざるを得なかった側面があります。やはり日本人が巻き込まれる事件が起きるなどしていますし、日本人の中に権利意識が出てきたことも有ります」
ところが、なぜ日本本土にあった海兵隊が沖縄に移駐することになったのかは、研究者の中でも議論が分かれているという。
「当時のアメリカ側の記録では、アメリカ本国に返すべきという意見が多かったことがわかります。それが結果的に、沖縄に集中的に移駐されることになった理由については、中国が台湾の島々を襲撃した台湾海峡危機への対応だったという説が有力になっていますが、まだ確定したわけではありません」
今後の研究が待たれるが、その理由は明確でないにせよ、日本本土の負担を減らす結果として沖縄にアメリカ軍が移設されたことは間違いないだろう。
因みに、「沖縄への海兵隊の再配置」と題された文書には、「日本本土の基地を減らす必要がある」と記載されている。
そして今、70%超のアメリカ軍専用施設を抱える沖縄
日本本土から沖縄に部隊を配置換えしたことで、在日アメリカ軍の施設が沖縄県に集中することになったということだ。ここで、その現状を見てみたい。防衛省がまとめた資料によると、アメリカ軍の専用施設は13の都道府県にある。
沖縄県以外では、北海道、青森県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、静岡県、京都府、広島県、山口県、福岡県、長崎県だ。
最も広い面積をアメリカ軍が占有している沖縄県について見てみると、問題となっている海兵隊の普天間飛行場が475万平方メートル、北部演習場が3533万平方メートルとなっているが、この北部演習場より大きいのがキャンプ・ハンセンで4811万平方メートルだ。ここは防衛省の資料では演習場という位置づけになっているが、実際には海兵隊の実動部隊である31海兵遠征部隊の拠点であり単なる演習場ではない。
また、4000メートル級の滑走路2本を持ち極東最大の空軍基地と称される嘉手納飛行場は1986万平方メートルもある。因みに羽田空港は1516万平方メートルで、嘉手納飛行場より小さい。
沖縄県内の米軍専用施設を足し上げると、31施設・区域となり、総面積は1億8496万平方メートル、「東京ドーム3955個が入る広さ」となる。
一方、他の12都道府県を見てみよう。この中で最も大きな、つまり最も広い面積の米軍施設が置かれているのは青森県だ。F16戦闘機の部隊がいる三沢飛行場の他、射爆場や燃料貯蔵施設などで2374万平方メートル。
二番目が1473万平方メートルの神奈川県。ここには第七艦隊の母港である横須賀の海軍施設の他、同じく海軍の厚木飛行場、陸軍のキャンプ座間などがある。
三番目が東京都で1319万平方メートル。ここには在日米軍司令部が置かれている横田飛行場、レクレーション施設でもあるニューサンノー米軍センターなどがある。
因みに4番目は、安倍総理の地元の山口県で、海兵隊の岩国飛行場などがあり(広島県と山口県にまたがる)、867万平方メートルだ。
こうした沖縄を含む13都道府県におけるアメリカ軍占有施設の総面積を足し上げると2億6319万平方メートルとなる。それを分母に沖縄県の比率を出すと、70.276%となる。同じように出すと青森県は9.02%、神奈川県は5.60%、東京都は5.01%となっており、四番目の山口県でも3.29%という状況だ。文字通り、桁違いな比率だ。
故翁長雄志氏は、「戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0.6パーセントにすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70.3パーセントが存在し続けており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています」と主張していた。そして、その沖縄への過度な集中が、辺野古の普天間飛行場代替施設の建設に反対する理由だった。
2候補が接戦を繰り広げる沖縄県知事選
その翁長氏の死去で早まった沖縄県知事選挙は9月30日に投開票が行われる。直前に沖縄に入って選挙戦を見た。
選挙には4人が立候補しているが、事実上、自民、公明両党などが推薦する佐喜真淳(54)候補と翁長氏が後継者とした玉城デニー(58)候補との一騎打ちとなっている。
「(政府との)争いや対立ではなく、和を持って対話をしてこの沖縄を導いていく」と語る佐喜真候補だが、普天間基地の辺野古移設については是非を明らかにしていない。
一方、玉城候補は、「普天間基地の辺野古への移設について反対する理由をアメリカ政府にもしっかりと話していく」と語り、辺野古への移設に反対する姿勢を明確にしている。
さて、沖縄県民はどういう判断を示すのだろうか。
発言した日本政府代表とは
ここで、冒頭紹介した日本政府代表の発言に戻りたい。
日本側の指摘に、アメリカ政府の代表は、在日アメリカ軍の必要性を強調しつつ、「理解する」と答えている。明らかに日本側に理が有る以上、反論はできないといった感じだろう。
そのアメリカ側の代表とは、ジョン・フォスター・ダレス。首都ワシントンの空港の名称にもなっている当時の国務長官だ。
では、それだけの大物国務長官に面と向かって強い懸念を示した日本側代表は誰だろうか。
文書には、「Prime Minister Kishi」と書かれていた。日米安保条約を改正した総理大臣、あの岸信介氏だ。これをどう読み解けば良いのか、この点についても、野添准教授に尋ねた。
「先ず、岸総理の発言の背景として、当時の日本本土の状況があります。日本本土でもアメリカ軍基地に対する反対運動が高まっていました。沖縄の基地に対する反対運動が本土に飛び火しやすい状況だったわけです。そうした状況で、沖縄の基地問題も日本の問題としてとらえていたのです」
岸氏は、施政権の無い沖縄の問題を日本の問題だと意識していた?
「そう思います。そこには、アメリカ軍の問題を自分たちの問題だと考える土壌が当時の政府には有ったということかとも思います。本土にもアメリカ軍基地が多くあったため、沖縄の痛みが共有できる土壌が有ったということでしょう」
「そこには」・・・と野添准教授は続けた。
「勿論、弱者の脅迫という面も有ったかもしれない」
弱者の脅迫?
「当時の日米関係で言えば、今より圧倒的に日本は弱者だったわけです。でも外交の場面では、弱者の方が強く出られる面もある。岸総理の発言にはそういう面も有ったかと思います」
野添准教授は続けた。
「岸総理は、日本本土からの沖縄へのアメリカ軍の移設そのものには反対していない。純粋に沖縄の側に立ってものを考えていたかと言うと、そこは違うかと思います」
言うまでも無く岸氏は安倍総理の祖父だ。安倍総理が尊敬してやまないことで知られ、墓前で報告する姿は度々ニュースになっている。しかし、安倍総理が「土地の希少性」についてアメリカ政府に懸念を示したという話を耳にしたことはない。
野添准教授は現状の外交についてこう話す。
「沖縄の気持ちを共有する土壌が今の本土に無くなっているということでしょう。しかし、日米安保の安定のためには、沖縄の基地負担を軽減すべきということはアメリカに言えるわけです。それが外交です」
今年で戦後73年。アメリカの公文書が突きつけたものは、過去に共有できていた沖縄の痛みを、今われわれが共有できているのかという疑問だった。かつては思いをいたらせていた沖縄の米軍基地問題に日本はどう向き合っていくべきか、知事選を機に多くの人に考えてもらいたい。
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