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ウクライナの版図は過去ロシアとどのような関係があったのか

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
暴挙はいつまで続くのか(写真:ロイター/アフロ)

 ロシアのウクライナ侵攻の先がみえません。いかなる理由があったとしても30年以上続く主権国家を軍事力で圧殺しようとの試みは言語道断。とはいえ、ここまで来ると「プーチンは何を考えているのか」が気になるのも事実。彼の論文などから探りつつ1000年以上前の歴史をひもといてみました。

プーチンがいう「歴史的ロシア」「一体性」とは

 ロシアのウクライナ侵攻で21年7月にプーチン露大統領が発表した「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文が改めて注目されました。ロシア人もウクライナ人も「歴史的ロシア」においてきょうだいであると。

 その淵源は9世紀に興ったキエフ大公国(~1240年)。リューリク家が統べる国家で「東スラブ」(今のロシア、ウクライナ、ベラルーシなどを指す)によって栄えていましたがモンゴル帝国に滅ぼされた王朝です。

 リューリク朝は分割相続していたため年を経るごとに国内にいくつもの君主を抱える二重支配的傾向を帯びます。現ロシアの源流ともいえるモスクワ大公国もその1つ。やはりモンゴルに従ったものの1480年、イヴァン3世が事実上の独立を果たします。

ロシア・ポーランド戦争の結果

 その頃、現ウクライナの多くがポーランド(ポーランド・リトアニア王国)に支配されていました。1654年~67年の「ロシア・ポーランド戦争」の結果、ロシアはポーランドからキエフと現ウクライナ東部を得ます。

ポーランド分割の結果

 「女帝」として名高い皇帝エカチェリーナ2世(在位1762年~96年)は1793年・95年の「ポーランド分割」にかかわって現ウクライナ西部の多くを獲得しました。ただし72年の第1回分割では最西端のリヴィウなどガリツィア地域をオーストリア帝国に帰属されるのを認めました。

オスマン帝国とクリミア半島

 南部のクリミア半島周辺は少々状況が異なります。モンゴル帝国に連なるクリミア・ハン国が支配していましたがエカチェリーナの治世時にはオスマン帝国の保護下となっています。そこで1774年、エカチェリーナ2世はオスマン帝国と条約を結んで「クリミア・ハン国の独立」をオスマンに認めさせる形で一帯を実質的に獲得した上で83年に派兵してハン国を滅ぼします。

第1次大戦の単独講和とウクライナ民族意識の高揚

 その後もロシアの西南への勢力拡大は続きましたが1917年に勃発したロシア革命が大きな転機となったのです。折しも第1次世界大戦中。革命政府は戦っていたドイツやオーストリアと単独講和。バルト3国やフィンランドを失います。さらにドイツ敗戦で幕を閉じた後のヴェルサイユ条約で分割以降ロシアなどに服していたポーランドが正式復活。敗戦国オーストリアからガリツィア地域などが割譲されたのです。

 この混乱期にウクライナの民族意識は高揚し、ウクライナ人民共和国の成立を宣言。ドイツとその名で講和して対ロシア戦の援軍と頼むも後に反目。さらにドイツが降伏し、ロシア赤軍に席巻され、共産系のウクライナ社会主義ソビエト共和国「建国」を余儀なくされます。この名の国がロシアなど4カ国で22年に結成したのがソ連でした。

 文頭のプーチン論文はこの経緯を「我々の過ち」としています。そもそもウクライナは歴史的ロシアとして一体であったのに、それを損なう形でソ連は形成されたと。

 こうした認識はソ連崩壊の経緯を合わせて考えると彼の独自の思想が浮かび上がってきます。崩壊は実質的に1991年末のベロベーシ合意で決まりました。その内容は結成に携わったロシア、ウクライナ、ベラルーシの「原同盟国がその意思をなくした」を確認したというものだから。結成のいきさつに疑義を呈するプーチン論文は当然このロジックも否定しないとおかしい。

第2次大戦でガリツィア地域も手中

 1939年、ソ連はナチスドイツと不可侵条約を結びます。同年ドイツがポーランドへ侵攻して第2次世界大戦スタート。後に明らかとなった秘密議定書でポーランドが所有するガリツィアなどの奪還を約束する密約だとわかっています。

 戦争自体は41年にヒトラーが条約を一方的に破棄して独ソ戦が始まり、翌年ソ連は米英などと連合国共同宣言に調印して正式な「枢軸国の敵たる連合国の一員」となり、ドイツ陥落を目指して西へと進軍する大義名分を得たので不可侵条約から独ソ戦までの責任を事実上免れています。ここでガリツィア地域も手中にして今のウクライナの版図がほぼ確立しました。ソ連は第1次大戦の講和で喪った地域を奪回したのです。

評価がわかれるフメリニツキーの決断

 クリミアの歴史も論文が強調する両民族の一体性と大きくかかわってきます。

 モンゴル帝国の支配下でロシア・ウクライナの草原地帯に住んでいた人々は帝国が得意とする騎馬戦術に対抗しているうちに自らも技量を身につけ「コサック」と呼ばれる武装騎馬隊を組織するようになりました。支配者がポーランド・リトアニア王国に変わって反感を強めたコサックのリーダー・フメリニツキーが反乱を起こした際に結果的に味方と頼んだのがロシアでした。

 1654年、フメリニツキーはロシアの保護を要請。これがきっかけで始まったのが前述の「ロシア・ポーランド戦争」です。ロシアの史観はこの出来事をキエフ大公国以来の再結合とみなすのに対し、ウクライナ史観は一時的な盟約に過ぎないと否定的。

クリミアをウクライナ領とした経緯

 慶事と称える側にいたのがソ連の有力指導者で後にトップとなるフルシチョフでした。ソ連の建て前は「構成する15共和国が対等」なので最大のロシアでなく他の出身であると強調すると出世に有利という奇妙な習わしがあったのです。歴代最高指導者もスターリンはグルジア出身、ブレジネフもウクライナの大学を出て就職したのが「売り」です。ブレジネフはモルドバにも地縁があって、その人脈からチェルネンコを輩出しました。

 フルシチョフもウクライナとの縁を強調した人物です。1954年、スターリン死後のソ連共産党権力闘争のまっただなかにあったフルシチョフ党第1書記(当時)がフメリニツキーとの盟約300年を記念してクリミアをウクライナ領に変更してしまいました。故郷に恩を売っておこうという腹づもりがあったのでしょう。

 歴史的経緯が北部と異なるクリミア住民(ロシア系が多い)はソ連時代から不満を募らせ、連邦解体でウクライナが独立した際には「ならばクリミアも独立だ」という声が沸き起こりました。そこでウクライナとロシアが話し合い

・ロシアはクリミアをウクライナ領と認める

・クリミアは国家とほぼ同等の権限(議会や政府の設置など)を持つ自治共和国とウクライナ憲法が保障する

・セバストポリはロシアが借り受ける

で折り合ったのです。彼の人の頭の中では14年の編入は「そもそもロシア」のクリミアを取り返し、今の事態は「ウクライナはそもそも一体」にまで発展しているのかもしれません。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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