天皇皇后両陛下の長女、愛子さまが12月1日、成人となられます。いよいよ成年皇族として一層の存在感を放たれるでしょう。

 現在の皇室典範(=法律)では女性皇族は婚姻で皇籍を離脱すると定められています。他方、減少するばかりの皇族に危機感を持った国会は「女性宮家の創設」検討を政府に促しており、有識者会議も有力な案とみなしているのです。

 もし愛子さまが結婚後に宮家を創られたら。お相手の扱いをどうするかなど難問山積ですが、クリアできれば嫌悪する国民はそういないと推測されます。

 ただ、そうなったらなったで新たな課題も出てきそう。ここでは「女性宮家」「女性天皇」「傍系間の皇位継承」の3つをキーワードとして「国民の総意に基づく」天皇の地位とその家族のあり方を考えていきます。

直系重視の典範の目的と愛子さまのポジション

 現在の未婚の女性皇族は5人。愛子さまと秋篠宮家の佳子さま、称号を「女王」とする三笠宮系統のお2人および高円宮家のお1人です。女性宮家の範囲が決まっていないなか、5方すべてを対象にすると仮定したら、愛子さまの存在感は突出します。

 典範は皇位継承者を男系男子に限るため愛子さまが天皇になる可能性はゼロ。ただし歴史上、父が皇統に属する女性天皇は8人を数えます。そこで典範を男系男女に改正したらどうなるかをシミュレーションしてみます。決して荒唐無稽な話ではなく2005年、小泉純一郎首相の諮問機関が継承順を「男女を問わず第1子を優先」とした報告書を出しているのです。

 報告書に準じると以下こうなります。数字は皇位継承順。平成の天皇からのカウントです。

一 皇長子→今上天皇

二 皇長孫→愛子さま(継承順1位)

三 その他の皇長子の子孫→該当者なし

四 皇次子及びその子孫→秋篠宮さま(2位)佳子さま(3位)悠仁さま(4位)

五 その他の皇子孫→該当者なし

六 皇兄弟及びその子孫→常陸宮さま(5位)

七 皇伯叔父及びその子孫→3人の女王殿下(6・7・8位)

 愛子さまが1位、次が「該当者なし」で3番目が現行法だと1位の秋篠宮さまとなります。

 典範の順位(漢数字)は「天皇の長氏が次代を、孫が次々代を担う」と直系を重視。今上天皇(126代)まで光格天皇(119代)から7代続けてこの流れ(夭折を除く)を踏襲してきたのです。

 男系女子を明確に外したのは1889年の大日本帝国憲法と旧皇室典範(いわゆる「典憲」)。過去の8人の女性天皇が例外的であったのと、何より憲政下の天皇が軍の統帥権(軍隊の指揮権)を独占し、先立っての82年の「軍人勅諭」にも「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と軍トップの位置づけであったのが女性を除いた大きな理由でしょう。

 「直系優先」のもう1つの理由は過去の傍系間(弟妹など)での皇位継承で深刻な騒動や事件が発生したのを防ぎたいというのもありました。

突出する「愛子宮家」の存在感

 小泉政権時の報告書が立ち消えになったのは翌年に悠仁さまが誕生され男系男子の跡取りができたとホッとしたから。しかしその後も14年と18年に2人の女王殿下が、今年は眞子内親王が結婚により皇籍離脱。19年には平成の天皇が退位されます。再び皇統の危機が見える化し「女性宮家創設」が本格的に論議され出しました。

 そこで先のシミュレーションです。同じ女性宮家でも「直系」の愛子さまのポジションは他の方々より圧倒的に高い。それ以上に微妙なのは悠仁さまとの「格」比較です。

 仮に今上天皇が平成の天皇と同じぐらい皇位を保った(85歳ぐらい)としたら「令和」は2045年ぐらいまで続きます。女性宮家ができたとして、その頃までに愛子さまが創設していないとは考えにくく「天皇の子の○○宮(当主の)愛子さま」となりましょう(「敬宮」は称号で宮号ではない)。

あくまで「秋篠宮家の悠仁さま」

 この間、悠仁さまはあくまで「秋篠宮家の悠仁さま」で当主ではなく形式上は傍系の秋篠宮家の当主予定者との扱い。三笠宮崇仁親王の長男、寬仁さまと同じような立ち位置です。すると実際問題として「どちらが偉いか」という比較論が自然と噴出しそう。

 今上天皇の後を秋篠宮さまが継いで初めて悠仁さまは「皇太子」と位置づけられます。でも先の試算では2045年以降。しかも秋篠宮さまは今上天皇と5つしか離れておらず、80歳で即位という現実的でない状況を生じるのです。

決して無力ではなかった過去の女性天皇

 各種世論調査によると一般論として「愛子天皇」容認は多数を占めます。歴代8人の女帝のうち天皇が父または母(女帝)の子つまり直系は7人。歴史云々を手繰るならば十分な有資格者です。しかも「典憲」の時代とは異なり軍(仮に自衛隊とする)との関係も現天皇には事実上(形式上は国事行為で防衛大臣の認証をする)ありません。

 歴代女帝は「つなぎ」であったというのも正確ではなさそう。まず孝謙天皇(46代)が当てはまりません。父帝の側室に男子がいながら皇太子となり、即位しています。

 他は確かに男系男子への「つなぎ」の役割が一義的な即位の理由とみなせます。だからといって皇太子や時の権力者に丸投げした権威のみの無力な女帝は稀。複数の実力者のバランサーとなったり、退位した後に即位した男性天皇を補佐し、助言を与え、時には名代として政務さえ執ったのです(※注)。

 なかでも持統天皇(41代)は夫の天武天皇(40代)即位前から共同統治者ともみなせる活躍をし、孫の文武天皇(42代)に譲って後も政治の中心にいました。「つなぎ」も「天武系へのつなぎ」というより自身の子つまり「天武-持統系へのつなぎ」へ執心し、天武帝の男子で持統帝の子ではない大津皇子(皇太子)を結果的に廃しています。完全に無力であったと推測できるのは明正天皇(109代)ぐらい。

 このように皇位は女性だから務まらないという事実が存在せず、現代の価値観に照らし合わせれば誕生はむしろ妥当とさえみなせるのです。

傍系間での皇位継承がかつてもたらした出来事

 さらに深刻なのは今上天皇(兄)から秋篠宮さま(弟)に移動した時点で発生する「傍系間(弟妹など)での皇位継承」。前出の通り多くの騒動や事件に発展しました。実際のケースを列挙してみます。

天智天皇(38代)から天武天皇(40代)

 兄から弟。天智天皇死後、息子の大友皇子(弘文天皇。39代)との間で672年、壬申の乱が発生して血塗られた継承となる。

孝謙・称徳天皇(46・48代)から淳仁天皇(47代)と光仁天皇(49代)

 「天武-持統系」から「天武-母が持統帝でない系」(淳仁天皇)を挟んで復位(重祚)(称徳天皇。48代)。死後、藤原氏の推しで天智系の光仁天皇が62歳で即位した。この間、藤原仲麻呂の乱や道鏡事件など皇位を揺るがす事態が発生。

平城天皇(51代)から嵯峨天皇(52代)

 兄から弟。病気で弟に譲位した後に復位を目指した平城太上天皇の変(藤原薬子の変)を810年に起こして失敗。平城上皇の子が皇太子を廃される。

陽成天皇(57代)から光孝天皇(58代)

 陽成天皇の祖父である文徳天皇と光孝天皇が兄弟。北家藤原氏の隆盛を築いた藤原基経によって若くして事実上廃されて55歳の光孝天皇に皇統が移る。天皇権力が弱まり摂関政治が強化された。

後冷泉天皇(70代)から後三条天皇(71代)

 兄から弟。兄の死によって34歳で即位。北家藤原氏による摂関政治の力の源泉たる外戚関係(天皇の母方の祖父)を持たず、延久の荘園整理令で摂関家に大打撃を加える。子の白河天皇(72代)から院政が本格的にスタート。

崇徳天皇(75代)から後白河天皇(77代)

 兄から弟。間に同じ兄弟の近衛天皇(76代)をはさむ。父の鳥羽上皇(74代)に疎まれて譲位させられたのが遺恨のもととなって保元の乱で敵味方となり敗れて配流。

安徳天皇(81代)から後鳥羽天皇(82代)

 兄から弟。平清盛を外祖父に持つ安徳天皇は幼くして平氏滅亡とともに死去。源平争乱の渦中で2人とも天皇を名乗る時期が2年重なるなど混乱。

後深草天皇(89代)から亀山天皇(90代)

 兄から弟。父の後嵯峨上皇(88代)の意向で17歳で弟に譲位を余儀なくされた。以降、後深草系が持明院統-北朝、亀山系が大覚寺統-南朝として長期間皇位を巡るいさかいを続ける。

後桃園天皇(118代)から光格天皇(119代)

 後桃園天皇の曾祖父の中御門天皇(114代)と光格天皇の祖父が兄弟。後桃園天皇に子がなく中御門系が断絶して閑院宮家出身の光格天皇へ皇統が移動。即位後、光格天皇が父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府ともめた「尊号一件」事件が発生。

 こうした経緯も踏まえて旧典範以降直系を重視してきたのです。

 まとめると以下の通り。

①直系を重視して過去に例がある女性天皇を容認し、「愛子天皇」を次代となす→男系男子の悠仁さまをどう処遇するかという難題を抱える

②現行法通り次代は「悠仁天皇」である→傍系への移動が発生する。

 ここに具体的には何も詰めていない女性宮家を創って「○○宮愛子殿下」が生まれると①と②だけで難問なのにさらに複雑化しかねません。

※注:主に『六国史』の記載に依る。史料批判が不十分なのを留意されたい。