香港の歴史に刻まれる「99年」「50年」と「2047年」

香港国家安全維持法への「無言の抵抗」を示す付箋(写真:ロイター/アフロ)

 中国(中華人民共和国)の国会にあたる全国人民代表大会(全人代。年1回開催)の常務委員会(全人代閉会中に立法権を代行)が制定、施行した「香港国家安全維持法」(国安法)が香港の「1国2制度」を骨抜きにするとして国際的に注視されています。

イギリス植民地下の状況

 揺らいでいるとされる「1国2制度」のうち「2制度」とは香港の場合、イギリスから中国への返還(1997年)にあたって50年間は経済で資本主義を、香港特別行政区基本法(憲法に相当)が保障する「言論・報道・出版の自由」「集会の自由」などを、それぞれ認める「高度な自治」を指します。他にも国際組織への単独参加や異なる通貨(香港ドル)など通常は同じ国の一地域にはあり得ない権限を有しているのです。

 基本法は返還に先立つ90年、やはり全人代で可決成立しています。

 では返還前の香港に民主主義が根ざしていたかというと全然ありませんでした。あくまでもイギリスの植民地で同国が任命する「香港総督」がすべて差配しているに等しい状態だったのです。さらにいえば総督もまたロンドンの指示下に置かれています。一応立法府と行政府に準じる組織は作られたものの香港市民が直接選べる代表はゼロでした。

 返還が現実のテーマに浮上してきた80年代頃からようやく限定的な民主主義的枠組みが誕生し議員の一部は住民の選挙で決められるようになったのです。ただし総じて微温的な改革に止まっていました。

中国大陸激動の疎開先として

 そもそも香港は中国にかつて存在した王朝の支配下にあり、それを後述するようにイギリスが奪い取った地域です。それが大陸における「自由」のシンボル的存在になったのは特に19世紀末から20世紀のほとんどで中国大陸が動乱と激動の歴史を繰り返し、その疎開先とでもいうべき役割を果たしてきたからに他なりません。

 中国最後の王朝である清朝末期の混乱から中華民国設立に至る辛亥革命、列国による「中国分割」(形式的には租借=借りる)、日本との戦争(香港も占領された)、国共内戦と中華人民共和国の成立と激しく揺れ動き、そのたびごとに大英帝国の支配下で英連邦にも属した香港を安全地帯と見込んで流入する者が絶えませんでした。現共産主義体制になってからも文化大革命や天安門事件などが相次ぎます。

 言い換えると、こうした混沌から香港は距離が置けただけ幸せであったともいえるのです。たとえ民主的な仕組みがなかったとしても。特に第二次世界大戦終結後「植民地主義は悪」というコンセンサスが世界共通になっていくにつれ、大英帝国のそれも次々に独立し、残った地域にロンドンも苛烈な政策を施さなくなりました。

 イギリスは自由貿易の元祖で、それゆえに香港も経済的自由放任地帯となって工業化や東アジアの貿易さらに金融の拠点として発達していきます。中国中央は経済活動の自由も法の支配も保障されていないため直接投資がためらわれ、大半を香港経由でなされていきます。結果的に世界有数の金融センターにまで成長しました。

無責任極まる「99年租借」

 そんな香港がなぜ返還されたかというと、ひとえに租借期限が満了したからです。

 イギリスが支配し、返還された地理上の「香港」は3つに分けられます。

1)香港島……1840年勃発のアヘン戦争で敗北した清が勝ったイギリスへの永久割譲に同意する

2)九竜(九竜半島南部)……1856年に起きたアロー号事件(アロー戦争)に負けた清朝がイギリスへ永久割譲

3)新界(九竜半島北部)……日清戦争敗北(95年)で敗れた清朝の弱体化につけこんだ列国が98年に相次いで清をなかば脅すようにして「99年の租借」を認めさせた。イギリスの新界以外にもドイツ(山東半島の膠州湾)、フランス(広州湾)など。

 この「99年」という数字は当時の平均年齢を踏まえると「ほとんど永久」に等しいとか「100年」だと露骨すぎるから少しだけ遠慮した結果だとかさまざまな説があります。まあ今日でさえ「99年借りるぜ」は取られたと同義でしょう。日本も1915年、既に得ていた遼東半島南部などの租借期限を99年延長せよと中華民国政府に「対華二十一箇条の要求」を突きつけています。

 膠州湾はドイツが第一次世界大戦に敗北して手放し、広州湾も第二次世界大戦中に日本が一時占領した後に敗戦を迎え、中国軍が接収した事実をフランスが認めて終了しました。残る「ほとんど永久」がイギリスの新界のみとなり、1997年にマジで99年の期限が終了してしまったわけです。

先送りに過ぎなかった「50年間」

 ゆえにイギリスは当初、新界のみの返還を考えていましたが中国中央は納得せず、丸ごと返してくれなければ武力による回収も辞さずとの強硬姿勢を崩しません。イギリスも99年というトンデモ期限が本当に切れてしまうという事実に加えて香港島や九竜も少なくとも交渉が本格化した1980年代の感覚だとイチャモンをつけて強奪したに等しい歴史であるのは認めざるを得ず、了承します。他方、中国中央も丸ごと返還ならばムチャクチャをいわず妥協案として香港特別行政区基本法で「1国2制度」を定めたのです。

 英中が返還に合意した84年頃、中国は改革開放路線が実を結び始めたあたりで香港は経済発展に欠かせない地域でした。名を多少は譲っても実がほしかったのです。

 なぜ「50年」にしたかも諸説あり。おおよそ当時の英中政治指導者にとっては「それくらいあれば何とかなるだろう」といったあたりかと。意地悪く解釈すれば「わが亡きあとに洪水はきたれ」的感覚。前途をはかなんで英連邦市民のうちに海外へ脱出した人を除き、残留した香港市民も「それぐらい後ろ倒しされれば……」と一息つける期限でもあったでしょう。

 同床異夢であったとも推測できます。イギリスや西側は50年も経てば中国も香港のように民主化される(前述のようにイギリス植民地下の香港も民主化にはほど遠かったのですが)かもと。中国も同じ漢族が圧倒的多数の香港だから50年も経てばなじんでくれるだろうぐらいの感覚だったのではないでしょうか。

「香港人」というアイデンティティー

 というわけで返還後の香港は皮肉にも初めて「制度」を得ました。特別行政区のトップである行政長官は以前の総督=イギリス人とは異なり香港出身者または移住者が占め(代行を含む)、多くは英米への留学経験があるとか植民地時代の官僚といった「非中国的」な要素を持った人物です。

 ただし立候補には経済界や各種団体、エリート層など中国中央政府にとって都合のいい選挙委員会の推薦が必要で投票できるのも約1200人の選挙委員のみの制限選挙です。立法府に当たる立法会選挙も普通選挙ではなく直接選挙枠は一部に止まります。

 いわゆる香港の「民主派」は西欧やアメリカ、日本のように一定の支持があれば誰でも立候補でき、制限なく投票できる普通選挙の実現を主張しています。一方の中国は「国家を指導する」(憲法)共産党の支配に服していて三権分立すらありません。

 ところで今回の国安法も、昨年の「逃亡犯条例」に端を発する大規模デモも若者の姿が目立ちます。ここに97年の「50年間」と「1国2制度」の導入のツケを誰が払うのかという課題が浮き彫りになっているというのはうがちすぎでしょうか。

 97年からすでに約23年経ちました。この間、香港は植民地から「2制度」を生きてきたのです。共同通信と読売、朝日、毎日新聞のデータベースで1998年から毎年「香港人」という言葉を検索すると昨年、激増しています。うち米議会の「香港人権・民主主義法案」関連の記事を除いても約200件。デモのスローガン「香港人は抵抗する」などアイデンティティーに帰属すると思われる使われ方が目立つのです。今年に入っても同程度で推移しています。

今を生きる若者には我が事の「2047年」

 教科書通りの解釈をすれば共産主義の対置語たる資本主義(2制度の「制度」を指す本来の概念)」が脅かされる=香港の危機となるのでしょうがデモ参加者も中国中央もそこを論点にしていません。昨年8月から叫ばれている民主派の「五大要求」には従来の普通選挙実施以外に抗議行動やデモ参加者に対する摘発や警察の暴力への強い憤りが示されています。

 対する国安法は難解で範囲もあいまいなのがつらいのですが民主化運動や政府批判の言動を封じ、英米法(香港)とは全く異なる中国の司法制度を当てはめたいという強い意思を感じます。

 香港返還により市民は中国中央との差異を「別の国」であったイギリス時代より一層感じるようになったでしょう。特にその時代しか知らない若者にとっては。それより上の世代は英国海外市民(BNO)旅券を持つか申請権があるのに対し返還後に誕生した人は権利を有しません。「香港人」として故郷に生きていくつもりでいる若者に「50年」の期限である2047年は「わが亡きあと」どころか十分に生存している可能性大の年号なのです。

 2047年以降のポスト1国2制度時代がどうなるか何も決まっていません。これほどの不安はありますまい。最も予測されるのは中国中央による完全な一体化。表現や集会の自由を喪失する未来は「洪水」でしかないはずです。14年の雨傘運動のきっかけとなった行政長官候補から民主派を排除する決定や昨年の逃亡犯条例、そして国安法の適用は「洪水」を予感させるのに十分な出来事でした。

 歴史を振り返ってみると当時の権力者が先送りした後を何も考えておらず、「その時」を迎えた子孫に丸投げした罪は重いといえます。97年の「50年間」もその1つ。ただなぜ97年にそうしなければならなかったかというと「99年間」の取り決めがあったから。ツケを払わされる世代が現実に生活しているのを中高年が座視してはなりません。

最高指導者すら予見できなかった習近平の時代

 返還を主導したトウ小平氏は中華人民共和国建国以降の「毛沢東・周恩来」体制が両氏の死で終了して起きた混乱を鎮めて以来、最高指導者として君臨してきました。国家(主席)・党(総書記)・軍(中央軍事委員会主席)の3トップをリーダーが兼任し、5年×2期で交代するシステムを考案し、江沢民、胡錦濤両氏まで後継者を定めておいたのです。政策はもっぱら改革開放路線の推進。

 現在の習近平氏からポスト「トウ小平システム」が始まったといえます。習氏は初の建国以降の生まれでトップに立った時にはすでに世界第二のGDP大国でした。国家主席の任期上限をなくし、トウの外交スタンスである「目立たないようにしながら時期を待つ」から踏み出して「海洋強国」を掲げるなど「トウ小平システム」から明らかに踏み出しました。最も未来を想定したであろうトウでさえ50年後など到底見通せなかったのです。

 イギリスはBNO旅券の制約を緩和して英市民権獲得も可能にする動きをみせています。しかし前述の通り1997年以降生まれには適用されない上に、今のイギリスに救命ボートを出した後の受け皿が用意できるか甚だ疑問。民主派も一枚岩でなく「香港独立」を叫ぶ本土派から穏健派までばらついています。国安法という新たな脅威で分断が一層深まるかもしれません。

 そもそも香港市民=民主派でもありません。権限がない代わりに直接選挙がほぼ認められている区議会議員選挙の昨年の得票率は民主派が約6割、建制派(親中派)が約4割です。さまざまな因子を抱えつつ「2047年以後の香港」への模索はかつての植民地主義に端を発する課題だけにイギリスのみならず帝国主義に手を染めた歴史を持つ主要国にも相応の責任があり、傍観は許されません。