安倍首相が並ぶ首相在職日数史上1位「桂太郎」とは

この方です(写真:アフロ)

 安倍晋三首相の通算在職日数が19日、2886日となり、歴代1位の桂太郎と並びます。桂(1848年1月生~1913年10月死去)は主に明治時代で宰相を務めた人物。過去最長の記録を持ちながら今ひとつ知名度に欠けるこの人物を首相時代を中心に振り返ってみます。

革命第2世代の退場

 桂が最初に首相となったのは1901年。明治で数えると34年で、俗に「維新」と呼ばれる徳川幕藩体制崩壊からかなり経っています。

 内閣制度がスタートしたのが1885年。新政府樹立に直接的に関与した薩摩(鹿児島)長州(山口)2藩の中心人物を仮に革命第1世代とすれば、この時点でことごとく世を去っています。薩摩だと西郷隆盛が反乱の後自害、大久保利通は暗殺、小松帯刀は病死。長州では大村益次郎が暗殺、木戸孝允は病死、前原一誠が反乱の後処刑。公家出身で重きをなした岩倉具視も病死していたのです。

 第2世代は薩摩が黒田清隆、松方正義、西郷従道(隆盛の弟)、大山巌(隆盛の従兄弟)、長州が伊藤博文、山県有朋、井上馨ら。うち初代首相を伊藤が務めたのを皮切りに桂が就任するまで黒田、松方、山県の4人で首相職をほぼ独占していました。例外が肥前(佐賀)出身の第1次大隈重信内閣(1898年6月30日~11月8日)。日本初の政党(憲政党)内閣と評価される一方で大隈もまた第2世代の一員でもあったのです。

 この間、大隈や土佐(高知)の板垣退助、後藤象二郎らが主導した自由民権運動が「薩長藩閥」を批判し続け、幾度かの挫折を経てきましたが、その可能性に気づいた伊藤は自らの手下と旧自由党系を中心とするメンバーで立憲政友会を設立し1900年、第4次内閣を成立させました。

 政党が大嫌いな山県は後述する自派系貴族院議員らを動かし、さらに一枚岩とはいえない政友会の内争を誘発させて翌年5月、伊藤を辞任に追い込みます。では次となって上記の第2世代6人(黒田は病没)が話し合い。後に元老と俗称されるメンバーです。

 当事者の井上に一度は大命降下(天皇が組閣を命じる)されるも有力者に入閣を断られて頓挫。従道と大山は逆臣の汚名を着せられていた隆盛との縁戚関係を理由に特段の興味を示さず(暗黙の抗議とも本当に政治への野心がなかったとも)、松方は財政家としては有能でも政治家としては後入斎(定見がない)とからかわれるほどで持論を発揮せず。伊藤は自身の挂冠直後とあって積極的に動けません。必然的に山県の意見が尊重される流れへ。彼が選んだのが桂でした。

第1次政権

(1901年6月2日~06年1月7日)1681日

山県有朋の太鼓持ちとやゆ

 山県は近代軍制創設を目指した大村暗殺後、薩摩の西郷従道とともに日本陸軍を事実上創設。内閣制度が始まってからは警察や地方行政を担う内務省の大臣を務め、これらのトップとして君臨します。功績のあった官僚出身者が多く議員を務めた貴族院でも山県系が浸透。「明治絶対主義国家の体現者」として恐れられていた巨頭です。

 桂は長州出身の陸軍人で山県の直系。「サーベル(軍人の提喩)を下げた幇間(ほうかん=太鼓持ち)」とやゆされるほど親分べったりで第1次内閣は海軍大臣の山本権兵衛らわずかな例外を除いて山県系官僚が占めました。せっかく第3世代が登場したのに強権の代名詞たる山県色が果てしなく濃かったためマスコミから「小山県内閣」「緞帳内閣」「次官内閣」などと散々な言われようでした。

 当然ながら衆議院で優勢な政友会ら政党勢力とはそりが合わず解散総選挙を繰り返すなど不安定でしたが1900年に発生した北清事変で満州(中国東北部)を事実上占領して勢力を朝鮮半島にも及ぼそうとするロシアへの警戒心が次第に高まります。日本はかねてより韓国(大韓帝国。1897年に李氏朝鮮が国名を改めた)への野心を抱いていたので。

 02年の日英同盟締結、03年に結成された頭山満らの対露同志会などによる開戦論鼓吹など「日露戦うべし」と傾いていきます。戦争必至となるや政局どころではなく挙国一致で政権は安定。帝国議会は巨額の軍事費と関係諸法案を成立させます。大々的な増税と主にイギリスとアメリカへの外国債発行で資金調達に奔走したのです。

日露戦争と第2次日韓協約

04年開戦。05年、陸軍は奉天会戦で勝ち、海軍も日本海海戦の圧倒的勝利を収めるも戦力・財政ともに限界に至り、9月4日のポーツマス条約締結で終戦しました。

 条約で日本は本来の目的である日本の韓国におけるいっさいの指導・監督権をロシアに承認させるのに成功しました。しかし連戦連勝、大勝利!と聞かされていた国民は賠償金すらとれなかった結果に不満爆発。調印の日の国民大会が暴徒化する(日比谷焼打ち事件)など不穏な動向に陥ったのです。

 桂は在任中、政友会と隠密裏に妥協を重ねて戦後の政権交代を密約する代わりに協力を取りつけたり、巨大な借金(外国債)をもってしても継戦が不可能なのを理解して早期の終戦を確定すべく伊藤の協力を仰ぐなど、なかなかの策士ぶりを発揮していたものの当時も今もさして評価されず、日露の英雄はもっぱら大山、山本、児玉源太郎、東郷平八郎、乃木希典(司馬遼太郎さんにはボロクソに書かれたが)らに譲り、逆に桂は対露弱腰と非難されたのです。

 桂は自伝で当時を兵力・財力の限界を顧慮すれば適当の時期に講和するしかないのにモスクワまで進軍するのも難しくないなどと勇ましい声をあげる者はこうした考慮をいっさいしないため当事者たる自分が全責任を取るしかなかったと慨嘆しています。

 他方、日本の韓国支配を列国に認めさせるべく05年7月の桂・タフト協定締結(対アメリカ)、8月の日英同盟第2回改訂、9月のポーツマス条約と歩を進め、11月の第2次日韓協約で韓国の外交権を奪って保護国化するに至りました。統治機関として統監府を置きます。ここで区切りをつけて政友会2代総裁の西園寺公望に政権を譲りました。「桂園時代」の始まりです。

第2次政権

(1908年7月14日~11年8月30日)1143日

 第1次西園寺内閣が戦後の財政処理に有効な手が打ちきれないまま(このあたりの史学的評価はまだ定まっていない)08年7月に総辞職すると桂が再登板しました。山県系が内閣を占めたのは相変わらずでしたが、今度は前回ほど親分の言いなりにはなりません。

 山県は元帥(事実上、終身の現役陸軍大将)として内閣にはからずロシアを第一の仮想敵とする帝国国防方針を策定します。財政再建を推進したい桂は07年の日露協約締結で一定の妥協を図ったロシアと再び角突き合わせるのを本心では嫌がっており、自ら大蔵大臣を兼ねるとともに腹心の後藤新平を抜擢して新鮮味を出しました。

 いわば山県ベッタリ四天王とでもいうべき人物にも接近して得意のニコポン(ニコニコしながら相手の肩や背をポンとたたく)で接近、とりこにしていきます。第1次政権をともにした薩摩出身の大浦兼武、米沢出身の平田東助など。山県閥内での争いはあるわけで、一頭地を抜くには同系で元来相性のよい桂の下で働きを示す価値が十分あったのです。

 公債償還は年5000万円を計画して財界も好感。宿敵の政友会に対しても解散で脅しながら西園寺への再禅譲をちらつかせて協力も得るという「言葉のクロロホルム」ぶりを十全に発揮して現実主義を貫きました。

 09年、韓国前統監の伊藤が韓国独立運動家の安重根に暗殺される大事件が発生。着々と進めてきた朝鮮半島の植民地化を翌10年の韓国併合条約締結で完成させました。

 11年、第1世代からの宿願であった不平等条約撤廃の総仕上げとなる日米通商航海条約調印あたりを花道に約束通り総辞職して西園寺へバトンタッチしたのです。

第3次政権

(1912年12月21日~13年2月20日)62日

西園寺内閣「毒殺」と山県からの自立

 第2次西園寺内閣発足翌年の12年、明治天皇が死去し大正天皇が即位しました。陸軍(ほぼ山県)が2個師団増設を朝鮮防衛を名目に強硬に要求するも西園寺が突っぱねたため、上原勇作陸軍大臣が抗議の辞任をして陸軍は後任を推薦しないという挙に出たのです。

 陸海軍大臣は第2次山県内閣の時に「現役の大将・中将に限る」とする現役武官制が規定されており、唯一の供給源たる軍が候補を出さないため総辞職せざるを得なくなりました(世にいう「毒殺」)。

 後を襲ったのが3度目の桂。直前まで新天皇の内大臣(相談役)と侍従長を兼ねていたため、親分の山県と共謀して内閣を毒殺し、宮中と政治の別を乱すのもいとわない陸軍・長州藩閥の横暴と世間で受け取られましたが実態はやや異なるようです。

 そもそも桂は辞任後も政界引退などみじんも考えておらず、むしろ2度の宰相経験で自信を深め、いよいよボス離れを本格化させようとやる気満々でした。とはいえおっかない山県から自立するのは簡単でないため、伊藤のひそみにならってか政党を作ろうと計画、当時は政友会に押されていた立憲国民党の有力者らに接近していたのです。

 そこを嫌った山県が大正天皇即位を奇貨として「大任は君にしか務まらない」と宮中入り(内大臣と侍従長兼務)をなかば強引にのませました。暗に「もう君の政界復活はないよ」とのサインです。大義を前に承服せざるを得なかった桂も2個師団増設問題のキーマンたる上原を使そうした気配が濃厚。

 西園寺退陣後の元老会議では松方(山県とはウマが合った)が最初に首相候補となるも当然辞退。次に挙がった山本権兵衛は元々西園寺内閣と相性が良く「毒殺」を快く思っておらず、かつ彼は山県さえ手が出せない海軍の棟梁で何が悲しくて尻ぬぐいするものかと受けず、最後に頼った平田も前述のようにもはや桂派なので辞退。カードを失った山県は桂の思惑通りとわかりつつ奏薦せざるを得ませんでした。

 満を持しての組閣は前政権と明らかに異なり桂派といっていいメンバーが並びます。後藤、大浦に加えて前政権から引き続き柴田家門、財界から三菱の閨閥に連なる加藤高明を選び、さらに官界から若槻禮次郎、松室致、仲小路廉を抜擢したのです。独自色を鮮明に打ち出して後は念願の新党だ!と意気盛ん……であったはずでしたが。

第1次護憲運動と大正政変

 桂のこうした思いはしょせん暗闘の末の宮廷クーデターのようなもので世間的には政党色の強い西園寺を毒殺して亡霊のように返り咲いた桂と背後霊の山県が仕組んだ長州藩閥・陸軍族の私物化にしかみえなかったのです。ここに名高い第一次護憲運動が「閥族打破・憲政擁護」の旗の下で開幕しました。

 なかでも際だったのは政友会の「憲政の神様」尾崎行雄と立憲国民党反藩閥派の犬養毅。2人が先頭に立って演説するや黒山の人だかり。13年、桂は新党「立憲同志会」結成を準備して「閥族」批判に対抗しようとするも国民党の一部を吸収するに止まります。

 尾崎が内閣不信任案提案理由として議会で行った「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとする」の名フレーズで著名な演説では桂新党構想が「内閣総理大臣の地位に立って然る後政党の組織に着手するといふが如きも、彼の一輩が如何に我憲法を軽く視、其精神のある所を理解せないかの一斑である」と一刀両断されてしまったのです。最後は民衆が立ち上がって数万人が議事堂を取り囲むなど徹頭徹尾嫌われて2カ月で総辞職する羽目となりました。世にいう大正政変です。その年の10月、桂病死。

 尾崎にコテンパンにされた立憲同志会は桂死後に発足し、国民党の有力者や加藤、大浦、若槻ら3次内閣の閣僚も参加して日の目を見、以後、憲政会、立憲民政党と衣替えしながら政友会と並ぶ2大政党へと成長していきました。加藤と若槻は首相も経験します。

後世の評価があまり高くない理由は

 桂首相は在任中、日英同盟、日露戦争勝利、韓国併合、条約改正などを成し遂げ、死後とはいえ2大政党制の礎も築きました。にもかかわらず後世の評価があまり高くないのは

1)最後の辞め方が悪すぎた

2)デビュー時からずっと「山県有朋の操り人形」というイメージにつきまとわれた

3)当時は偉業であった韓国の保護国化や併合が現在の価値観だとほめられるものではなくなった。韓国云々以前に第2次世界大戦後、列国の植民地政策自体が「好ましくなかった」と国際的に総括されているため

あたりでしょうか。実際には上記のように山県から独立しようとしたし、必要に応じて出身の陸軍はもちろん政敵の政友会や官界、財界、果ては伊藤とまでも妥協を重ねて成果を得た人心収攬に長けた人物でした。「桂園時代」の相方?である西園寺とも仲良しでしたし(そこがまた批判もされるのですが)。

 何より政治への思いが人一倍強かったのが長期政権の原動力となったでしょう。親しかった徳富蘇峰が病気見舞いに訪れた際、桂は次のように言ったと伝わります。「余の生命は政治。これをやめて長生きしても生きがいがない」。